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ウラル山脈の麓から、カザフスタンを抜けて、北京までの7300km

Paris Beijing2006 

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目次

2006年11月
ロシア・エカテリンブルク~カザフスタン~中国・北京

100年前のヨーロッパで、冒険ラリーが呼びかけられた。
「自動車で、パリから北京まで競走しようという者はいないか?」

その頃の自動車は、まだ、実用化したばかりで、“馬なし馬車”と呼ばれ、誰も今日のような発展と普及を予想していなかった。
ラリーは過酷を極め、生還者は熱狂を以て、迎えられた。

そのスピリットをリスペクトし、ダイムラーベンツは、「Eクラスエクスペリエンス・パリ~北京2006」を実施した。
パリから北京まで、メルセデスEクラスディーゼルを走らせ、その超長距離走行性能を確認しようというイベントだ。

行程は、5つに区切られ、ロシア・エカテリンブルクから北京までの後半3行程に参加した。

帰国後、『モーターマガジン』誌に連載した記事に追加訂正を施したものを、ここに掲載する。

アンカー 1

1.カザフ人の串焼き肉 東京

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ダイムラークライスラーが主催する「Eクラスエクスペリエンス パリ~北京2006」(以下、パリ~北京2006)の要項書を初めて見た時、どうしても参加したかった。

なぜならば、そのコース設定に心震わせられたからだ。

パリ~北京2006のコースは、5つに分けられている。

 第1レグ、パリ~ロシアのサンクトペテルブルクまで。
 第2レグ、~ロシアのエカテリンブルク。
 第3レグ、~カザフスタンのアルマトイ。
 第4レグ、~中国のランチュウ。
 そして、第5レグが北京まで。

僕が注目したのは、第3レグから第5レグ。アジアとヨーロッパを隔てるウラル山脈の麓の大都市、エカテリンブルクから北京までの約7300kmの行程だ。

もちろん、まだ一度も走ったことがない。逆に、第2レグのほとんどは、3年前に逆方向に走ったことがある。

第1レグは、走ったことのあるところが半分ぐらい。しかし、ドイツからポーランドを抜けて、リトアニア、ラトビア、エストニアというバルト三国を貫くコースには大いに食指が動かされる。違うコースでロシアからドイツへ入ったことがあるので、別のルートをたどってみたかった。

特に、ラトビアの首都、リガは街自体が世界遺産に指定されている美しいところだ。そればかりではなく、昔、よく読んでいた、グレアム・グリーンやルシアン・ネイハムなどの東西冷戦時代を描いたスパイ小説の舞台として頻繁に登場していたところなので、ひと目見ておきたいという野次馬根性も作用していたのかもしれない。

いずれにしても、未知の土地でクルマを運転してみたいという願望が強い。それを満たすために、3年前の夏に、ユーラシア大陸最西端のポルトガルのロカ岬まで走ったことがある。友人と準備を重ねて、富山からクルマをフェリーに乗せてロシアのウラジオストクに上陸し、ひたすら西に進んだ。

動機は単純だ。ヨーロッパ出張に向かう飛行機の窓から下界を見下ろした時に、シベリアの荒野を西へ延びる直線道路をクルマが虫のように走っていくのが小さく見えたからだ。

ああやって、ずっと走っていけば、いつも飛行機で行っているヨーロッパへクルマで行けるじゃないか!

自分の運転でヨーロッパに行ってみたい、とはずっと考えていた。

クルマのことを書いて仕事をさせてもらっているのならば、クルマ発祥の地であるヨーロッパへ、一度はクルマを運転して行ってみるべきだろう。飛行機でひとっ飛びしてしまってはつまらない。

そのように考えるようになってから、数年間、情報収集を続けた。すべてを友人のカメラマン田丸瑞穂さんと共同で負担し、中古車雑誌で見付けた、車検切れの1996年型のトヨタ・カルディナワゴンを37万円で買った。

ナンバーを取り、改造を施し、渡航のための煩雑な手続きを済ませて、富山県伏木港からルーシ号というロシアのフェリーに乗ったのが、2003年7月31日だった。

ルートは、ウラジオストクから北上し、ハバロフスクからはひたすら西へ進む。

計画の初期段階では、ウラジオストクとハバロフスクの途中から国境を越えて中国東北部を北西へ進み、ハルビンとチチハルを経由して満州里という国境の街から再びロシアへ入ろうと考えていた。

なぜ中国を通ろうとしたのかといえば、極東シベリアを避けるためだ。少ない情報やロシアから日本に来ている人たちに聞くと、みんな「極東シベリアには、クルマが走れるような道がない」というからだった。

いくら国土の面積が世界一だとはいえ、クルマの通れる道がないなんてことがあるのだろうか。

ほんとうに極東シベリアに道がなかったら、東端の重要軍港であるウラジオストクまでクルマで行けないということになる。

シベリア鉄道はロシアの西と東を結んでいるが、建設や保守のために沿線に道路がないなんてはずがないだろう。

僕と田丸さん、そして、ロシア語の通訳として同行してくれることになった東京外語大生イーゴリ・チルコフさんは、顔を見合わせた。

イーゴリさんは、西シベリアのウランウデ出身で、さらに西の大都市クラスノヤルスク大学に講師として籍を置きながら、日本に留学していた。日本とは情報の伝わり方に違い方があるようで、極東シベリアの道路事情などは知らないという。

だが、1999年に東京造形大学(当時)の波多野哲朗教授は、中国ルートを通ってロシアからロカ岬まで、学生を伴ってオートバイとクルマのグループで走破した。中国ルートを採ったのは、道のない極東シベリアをパスするためだ。

原則的に、現在でも中国では外国人はクルマを運転できない。しかし、波多野先生たちは研究と親善を目的とすると申請し、通行と運転許可を得ることができた。

「カネコさんの旅では、難しいと思いますよ」

キャンパス近くの喫茶店で会ってくれた波多野先生は教えてくれた。
先生によると、ガイトという名目で地域毎の公安警察が同行し、勝手に申請以外のルートを走ることが許されなかったという。

また、その頃、東京12チャンネルのテレビ番組「東京~ロンドン1万5000km 日本のタクシーが行く」という特別番組が放映された。俳優の宅間紳が東京のタクシーに乗り、タクシー発祥の地、ロンドンまで走る。彼らは天津に上陸し、シルクロードの天山北路を通ってカザフスタンに抜け、その先のロシアからヨーロッパに入っていた。

 

番組のプロデューサーに話を聞くと、やはり、中国に持ち込んだクルマを運転して西へ走り抜けるというのは難しいという。テレビ東京の場合は、開局40周年記念と国連の世界子供年という理由を掲げて申請しても、許可が下りるのに2年以上を要したらしい。

僕らには中国当局を動かすような動機付けはないし、交渉している時間もない。

「公安警察の監視付きでしたが、中国は食事が美味しいところが良かったですよ」

波多野先生の話には舌なめずりしたが、諦めざるを得なかった。

結局、イーゴリさんの友達の警察官が極東シベリアに勤務していることがわかって、国際電話で訊ねてみることにした。

「道はあるんだけれど、舗装されていない上に、曲がりくねって細い。穴や水たまりもたくさんある。もう修復されたけど、橋が落ちていた区間もある」
“道はないことはない。かなりハードだけれども、走って走れないこともない”というニュアンスだった。東京で考えていても仕方がなかった。行くしかなかった。そして、案の定、極東シベリアの道路は僕らの想像通りだった。大変なことが多かったけれど、その分、面白かった。

僕らが果たせなかった、中国ドライビングが実現するかもしれない。そう考えると、「パリ~北京06」の第4レグか第5レグに、ぜひとも参加したい。

さらに、カザフスタンも走ることができるかもしれないのだ。

カザフスタンも、3年前のロカ岬行きでは通ることができなかった。西シベリアのオムスクからチェリアビンスクへ西進するのに、国境沿いに進むよりも、まっすぐカザフスタンに入国し、ペトロパブロフスクという街を通過し、再びロシアに入国した方が距離が短そうに地図で見えたのだ。なにせ、街と街がとても離れており、道路も何パターンもあるわけではないから、入出国に多少時間と手間を取られたとしても、最短距離を採ることが、何よりも所要時間を短くできると判断したのだ。

だが、この案も、“ロシアからカズフスタンへの入国で8時間待たされた”という情報を得たことで、取り止めになった。

カザフスタンには、ロシア横断中から興味を抱いていた。バイカル湖のほとりの大都市イルクーツクを過ぎる頃になると、街や村の周りの国道沿いに、屋台や露店が増えてくる。中でも、どこに入っても美味しかったのがカザフ人の串焼き屋だった。立派なところは店舗を構え、簡素なところでは屋台だったが、目印は煙突からモクモクと吐き出される炭焼きの煙と眉毛やヒゲの濃い、独特の風貌のカザフ人の店主や店員たちだった。どこも、スパイスやハーブを擦り込んだ新鮮な牛や羊の肉を串に刺し、炭火で丁寧に焼かれたものを食べさせてくれた。

あの串焼きをもう一度食べたい。

カザフ人に限らず、ロシアではさまざまな人たちが、さまざまに暮らしていた。イーゴリさんは違うが、彼の故郷のウランウデなど、半分以上の人が日本人そっくりだった。

ロシアをクルマで旅していくと、人種だけでなく、食べ物も、串焼きが登場したように西に進むにつれて少しずつ変化していくのがわかる。道を行くクルマも同じ。東シベリアでは、90%以上が日本車だったのが、少しずつ減っていき、サンクトペテルブルクではほとんど見掛けなくなる。アジアの東からヨーロッパに行く過程で、あらゆるものがグラデーションのように変化して行く様子をこの目で確かめることができた。

パリ~北京では、同じことを、逆方向の別ルートでできるかもしれない。それも、カザフスタンと中国を自分で運転できるという望みまでかなえられるかもしれないのだ。僕は、出発する前から興奮していた。 

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●2.絶妙のサポート ロシア・エカテリンブルク

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エカテリンブルク中心地のアトリウム・ホテルから出て、突き当たりを右折し、少し直線を走って、次の曲がり角に差し掛かるところだった。
 
ポーンッ。
 
E320CDIのセンターコンソールに設えられたGPSが鳴った。
 
もうじき曲がり角ですよ、と音で指示してくれる。
 
気味の悪い人工音声がしゃべるカーナビよりシンプルでいい。

「パリ~北京2006」の第3レグは、ロシア西部の都市エカテリンブルクから始まった。
 
エカテリンブルクは、アジアとヨーロッパを隔てるウラル山脈の東側に位置するロシアで五番目に大きな都市だ。昨晩、空港からバスで市中心部のホテルに向かう途中で目にしたのは、工場群や住宅地ばかりだった。
 
ニコライ2世が革命軍によって家族とともに斬殺されたロマノフ王朝終焉の地であり、ロシア連邦初代大統領ボリス・エリツィンの出身地でもある。
 
ウラル山脈を境として、ロシアはアジアとヨーロッパに隔てられると言われている。実際、山脈の途中には“ここまでアジア、ここからヨーロッパ”という有名なモニュメントが建っているくらいだ。
 
エカテリンブルクはウラル山脈の東側に位置しているから、いちおう地理的、行政区分的にはぎりぎりアジア圏に属するのかもしれないが、クルマ文化圏としては完全にヨーロッパだ。
 
街を走っているのは、ジグリやラーダ、ヴォルガにモスクビッチなどといったロシア車やドイツ車ばかり。日本車は、少ない。これが、モスクワやサンクトペテルブルクに行くと、ロシア車が減り、その分ドイツ車が増えていく。
 
まだ、11月に入ったばかりだというのに、走っているクルマのボディの下半分は泥まみれだ。スパイクタイヤが路面を削った粉塵がこびり付いている。第2レグのサンクトペテルブルクからのウラル越えでは、雪に見舞われたというから、ロシアは完全に冬に入っていた。
 
幸いに、エカテリンブルクの街には雪は残っていない。これから先の行程でも、できれば雪には遭いたくないものだ。
 
ポーンッ。
 
アメリカ製のGPSガーミン(Garmin)60CSが、また次に曲がる交差点を教えてくれる。

最初に目標地点の1km手前で一度鳴り、次に10m手前でも再び教えてくれる。
 
10メートル単位の距離とタイミングがきわめて正確な上に、自動的に切り替わるモニター画面の縮尺率も心憎いほどドライバーの心理をつかんでいる。
 
日頃、日本で使っているカーナビだと、「右に曲がって下さい」、「分岐路を道なりです」とか具体的に細かく指示を与えるが、ガルミン60CSは、優しい電子音だけ。ドライバーが次に進むべき方向をどう知るかと言えば、配られたルートブックのコマ図と照らし合わせなければならない。
 
カーナビが音声案内してくれればあれば、そんな面倒は要らないじゃないか。そう一喝されそうだが、このGPSとコマ図の組み合わせが、実に使いやすいのだ。
 
街を一歩出てしまえば、地平線まで一本道が延々と続いているようなロシアやカザフスタンの国土すべてをカバーするようなカーナビ地図ソフトなどは存在していない。今後も販売されることはないだろう。需要が絶対にないからだ。渋滞もないし、道が少ないのだから迷いようがない。
 
では、仮にカーナビがE320CDIに搭載されていたとしても、僕はこのガーミン60CS+ルートブックの組み合わせを選ぶ。
 
ポーンッという電子音によって、ドライバーもパッセンジャーもルートブックを確認することで、運転している自覚が強まっていっているような気がするのだ。
 
日本のように、道が細かく入り組んでいたり、不規則に道が交差するような煩雑さがないから、ルートブックと地図だけでも運転は可能かもしれない。でも、“絶妙サポート”のガルミン60CSとの組み合わせが、鬼に金棒だった。
 
ガーミン60CSは市販されているGPSだから、誰かが同じコースを実際に走ってマッピングをしている。そうでなければ、コマ図とシンクロさせることはできない。
 
誰が、打ち込んだのか?

「パリ~北京2006」の各レグがスタートする前日には、スタッフと参加者全員でブリーフィングを行う。その時に、このイベントの責任者であるダイムラー・クライスラー広報部マネージャーのフローリアン・ウルビッチは、スタッフをひとりずつ紹介する。

「“パリダカール・レジェンド”、ミスタ・ルネ・メッジェ!」
 
背の高い初老のフランス人は、1984年と86年のパリダカール・ラリーをポルシェ959(84年は、「953」というプロトタイプ名でエントリーされた)で二度の総合優勝を果たしたルネ・メッジェその人だ。メッジェが、今回の「パリ~北京2006」のコースディレクターを務め、GPSのマッピングを行ったのだった。
 
メッジェはティエリー・サビーヌ亡きあとのパリダカール・ラリーの主催を引き継ぎ、運営に多大の貢献を果たした。そして、日本の三菱商事が主催した1991年(直前にキャンセル)、92年、95年のパリ北京ラリーのコースディレクターも務めている。ダイムラークライスラーは、これ以上ないくらい最適な人物にコースディレクターを託したわけだ。
 
ブリーフィングの席上、ウルビッチは参加者たちにクギを刺すように説明した。

「レースやラリーではない。ディーゼルエンジンを積んだEクラスのパフォーマンスを示すためのスペシャルチャレンジなのだ。速さを競うようなものではないから、決してスピードを出し過ぎたり、無謀な運転は行わないように」
 

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そうは言っても、ディーゼルエンジンの燃費性能の優秀性をアピールすることが最も大きな目的のひとつであるわけだから、毎日、燃費の測定は厳密に行われる。そして、各レグが終了した時に区間毎に最も優れたと劣った値を示したチームが発表される。
 
ダイムラー・クライスラーが用意したEクラスは36台。
 
33台がE320CDIで、3台がE320CDIブルーテック。すべて、4ドアセダンだ。これに、スタッフや4名のオフィシャルカメラマン、ビデオクルーなどが乗るサポートカーのGクラスが9台。
 
他に、修理機材やパーツを載せたトラックとバン。すべてのクルマのタイヤをサポートするミシュランのバンや燃料補給するアラルのトラックなどの大所帯が伴走する。E320CDIと連なって走るわけではなく、ほぼ同じ道を行くが、彼らは次の目的地に向けて一目散に走っていく。
 
では、どんな人たちが参加しているのか。
 
3台のブルーテックは、アメリカからの参加者に割り当てられている。ブルーテックは、アメリカで販売されたばかりだからだ。アメリカのメディア関係者が乗る。ボディは、カッティングシートでスターズ・アンド・ストライプスが張られている。
 
同じように、日本に割り当てられた9号車と10号車は日の丸だ。単なる赤い丸でなく、縁にグレーの影が描かれたりしていて、芸が細かい。国や地域ごとにクルマが割り当てられているのは、ドイツ、イギリス、フランス、イタリア、スイス/オーストリア、ロシア、ポルトガル、中国、東南アジア。インターナショナルと呼ばれるクルマは、上記以外の記者やメディア関係者が交代で参加した。
 
また、ドイツの自動車雑誌「アウトモーター・ウント・シュポルト」や「アウトビルド」、
「ADACマガジン」、さらにはドイツの映画賞「バンビアワード2006」などにも占有のE320CDIが割り当てられていた。
 
そして、ダイムラークライスラーがインターネットで公募した一般のドライバーが乗るクルマも2台用意されていた。フランスの一台にはタクシーメーターが取り付けられており、タクシードライバーがずっとハンドルを握っていた。
 
日の丸号の2台は全員がメディアとダイムラークライスラー関係者だったが、他のクルマには一般の人やスポーツ選手なども参加していた。
 
ポーンッ。
 
ガーミン60CSの案内音の間隔が長くなっている。エカテリンブルクの街を出たようだ。ルートブックによれば、14・53km先で左折し、その2・27km先で右に折れ、国道に乗ることになっている。国道をひたすら南西に走り、367.20kmでカザフスタンとの国境に到達する。国境を越え、さらに180kmあまり走ったコスタナイ市庁舎前広場が今日の目的地だ。ルートブック上の、エカテリンブルクからの走行距離は、540.97kmになる。 

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●3.国境通過 ロシア・トロイック

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やましいところがなくても、国境通過は緊張する。

日本列島はまわりを海に囲まれているから、戦後に生きる僕たちは国境を直接的に意識することはあまりない。

EUが結成され、加盟国間のパスポートコントロールが消滅したヨーロッパ諸国、たとえばドイツ、ベルギー、フランス、イタリア、スペイン、ポルトガルなどの国々を行き来する場合にも、今では停車することはなくなった。

最近の経験では、地中海沿いにイタリアからフランスに入った時に、パスポートコントロールを停まらずに通過した。

イタリア・ボルディゲーラの先の長いトンネルを出たところにある大きな建物は残っていたが、中はカラっぽ。片側3車線のどこを通るクルマも、スピードを落として、そのまま走り過ぎていった。

ドイツ~ベルギー、ベルギー~フランス国境も同様で、パスポートをカバンから取り出す必要なかった。

だが、2年前にスペインからフランスに入ろうとした時には、“ドライブスルー”方式でパスポートの提示を求められた。

その辺りに漂っている同じ空気を吸い、これまで走って来た一本道をそのまま行けばいいだけのことなのだが、地続きの国境には、必要以上に構えてしまう。

ダイムラー・クライスラー主催の「Eクラス・エクスペリエンス」一行は、11月3日に国境を越えて、ロシアからカザフスタンに入った。

エカテリンブルクから365.9km走ったところの、トロイック(Troick)という街に、国境はあった。トロイックは、1743年にコサック民によって砦が築かれた古い街なのだが、パスポートコントロールの建物は、周囲にほとんどなにもない草原にポツンと建っている。遠くに、発電所だが、工場が見えるぐらいだ。

先行している他のEクラスやスタッフカーのGクラスが、パスポートコントロールの建物を前にして、縦に並んでいる。

 

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列は他にも複数できていて、トラックはトラック、乗用車は乗用車が列をなし、その周囲でドライバーが所在なげにウロウロしたり、タバコを吸ったりしながら、列が進むのを待っている。

ここが、ロシアとカザフスタンの国境か。

3年前に、旧々型のトヨタ・カルディナでロシアを横断して、ポルトガルのロカ岬まで行った時に、カザフスタンを通過する計画を立てていた。ロシアのノボシビルスクからチェリアビンスクへ向かうのに、いったんカザフスタンに入国し、そのまま真西へ突っ切って、出国。ロシアへ再入国するつもりだった。ロシア内の道を走っていては、カザフスタンとの国境を迂回することになり、距離がかさんでしまうからだった。迂回距離の長さは無視できず、出入国の手間と時間を差し引いても、カザフスタン経由の方が、どう考えても早そうだった。

しかし、僕らよりも一年前の同じ時期に、同じ狙いで同じルートを採った人から体験談を聴くことができ、断念した。

「ロシアからカザフスタンへのパスポートコントロールでは、理由の説明もなく、8時間待たされた。止めた方がいいですよ」

8時間は待てなくはないが、“理由なく”というところが気になった。理由がないのだから、僕らが行ったら、倍の16時間待たされないとも限らない。近道のはずが、いわれなき足止めとなってしまっては困る。情報も与えられず、ただただ待たされるのは精神的にスッキリしない。なにごとも、ハッキリしない態度は大嫌いなのだ。

「カザフスタンは、ロシアから政治的にも経済的にもロシアから距離を取り始めていますから、お互い、国境では警戒しているのでしょう」

その、忌み嫌っていたはずのカザフスタン~ロシア国境だ。3年前に計画したのはこの国境ではなかったが、何かしらの縁があったということか。
「ノ~、フォ~ト。ノ~、フォ~ト」

コースディレクターのルネ・メッジェの女性アシスタントのひとりがEクラスの列の先頭から一台ずつ、参加者に撮影禁止を確認している。 それも、いっさい建物側を振り向かず、静かに、穏やかな声で、つまり税関吏に気付かれないように、それでいて僕らには有無を言わせぬような気迫を伴いながら、確実を期そうとしていた。

どうやら、ダイムラー・クライスラーとルネ・メッジェ一派は、事前にロシアとカザフスタン当局と交渉済みのようだった。一般の出入国待ちのクルマとは別に、一気に全部のメルセデスを通す段取りがなされているようだ。36台のEクラスと9台のGクラスが揃うのを待っているのだった。

片側3車線の両脇に大きな建物が1棟ずつ建ち、各車線の間に六畳ぐらいの小屋があり、その中の係官にパスポートを提出する。係官の眼を盗んで、小屋の中をチラチラと覗き込むことができた。

ダイムラー・クライスラー側のスタッフはロシアの税官吏と一緒に参加者名簿をチェックしている。

Eクラスの登録証には、レグごとに乗車する参加者が特定されているから、僕ら日本チームも9号車と10号車に登録証通りに乗り込んだ。小屋で3名分のパスポートを提出する。中の係官は、パスポートに貼られた顔写真とこちらの顔を目視で見比べ、手元のリストと名前を照らし合わせている。

ふたりの係官のうちのひとりが、僕のパスポートを手にして、小屋を出て、大きな建物に入って行った。他のふたりのには、すぐにスタンプを押したのに。おそらく、出発前に作った新しいパスポートがICチップ内蔵のものだったからではないだろうか。専用の機械でデータを読み出すことになっているのである。

我々の右隣の車線には、ボロボロで屋根までスーツケースをたくさん積み上げたバスが停まって、乗客が大きな建物にパスポートを手にしてゾロゾロと入って行った。顔は中央アジア系だ。出稼ぎの帰りだろうか。

無事にパスポートも戻され、行ってよし。これでロシアを出国だ。

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今度は、そのまま1kmちょっと先のカザフスタンの税関だ。広い駐車場にEクラスを停め、ロシアのものより質素な木造の建物に入る。建物は質素だったが、パスポートチェックの際に、カウンターに設置した小型CCDカメラでこちらの顔を撮影していた。こういうものは、すぐに普及する。

チェックは、いたって簡単だった。ものの数分でパスポートは返され、荷物検査もなく、行って良し。こちらも、ダイムラー・クライスラーの手配によるものだ。

だから、最初に感じた緊張感はすぐに消えてなくなった。もちろん、8時間待たされるようなこともない。でも、僕らがロシア国境に並び始めた時に、すでに並んでいたトラックや乗用車の列は、ほとんど進んでいなかった。ジグリや年代物のアウディ100などが、“出稼ぎ帰り”のバスと前後してカザフスタンに入って行ったが、それ以外はずっと停まっていた。僕らは、まとまって“ズル込み”したから、彼らがあのあとどれくらいの時間を国境通過に費やしたのかわからないのである。もしかして、8時間待たされたのかもしれない。

ダイムラー・クライスラーがカザフスタン当局と話を付けておいてくれたおかげで、8日後にカザフスタンを出国する時も、便宜を図ってくれた。

便宜だけではない。税関建物の中の広い部屋に特別に招き入れてくれ、テーブル一杯の菓子や軽食と飲み物などを振る舞ってくれたのだ。美しい民族衣装を着た女性が十数人、舞を舞って送迎してくれまでした。政府なり税関が管轄して送迎してくれたわけだけれども、実際に僕らに接してくれたカザフスタンの人達の、素朴で、心優しい眼差しは忘れない。

カザフスタン側のゲートを越え、中間の緩衝地帯を過ぎると、中国の税関が見えて来た。3階建ての大きなビルだ。

敷地は広く、僕たちが全車入り込んでも、他にたくさんの乗用車やトラックなどがいた。ここで中国に入国するわけだが、カザフスタン入国の時のようなわけにはいかなかった。
Eクラスをロックし、クルマの登録証とパスポートを持ってコントロールでスタンプを押してもらうまではスムーズにいったのだが、それ以降が滞った。

敷地内で待たされ、さらに隣接する陸運局らしき場所で中国を走るためのナンバープレートと運転免許証の交付を行うのに時間を要した。

ただ、こちらにもダイムラー・クライスラーは手を打ってあり、彼らから一部業務を委託された中国旅行社のスタッフが、役所側との間に入って駆けずり回ってくれた。

外国人が中国々内を運転するために必要な運転免許証は厳密に交付される。僕らも、事前に個人情報と顔写真をダイムラー・クライスラー経由で提出していた。運転できる期間と通過できる省までが明記されている。好き勝手にあちこち走って行けるわけではないということだ。

中国当局は、“個人が、自由にどこへでも移動できる”という自動車の本質を正確に把握し、それを自国内では厳密に規制している。期日と場所の限定は、それを雄弁に物語っていた。

ナンバープレートが付け替えられ、運転免許証が交付されても、僕らはすぐには出発できなかった。イタリアとアメリカ・チームのEクラスが税関から出てこないのだ。あらかじめ中国当局に提出してあった、それぞれのEクラスの車体番号と実際のそれが一致しないからだと聞いた。

陽も落ち、2台は来ないまま、陸運局の敷地から、隣の巨大なショッピングモールの駐車場に移動した。歓迎のセレモニーが予定されていたらしく、大きな風船式のゲートが風に舞っていた。駐車場にはテーブルが並べられ、飲み物や菓子を勧められた。午後8時を過ぎ、風も強く、寒くなってきたので、見物客も少ない。でも、近所の人たちなのか、人なつこく僕らの周りに集まってくる。彼らの顔付きは、数時間前に送迎してくれたカザフスタンの人たちのそれとは明らかに異なった容貌だ。ファッションや髪型なども、まったく違う。地理的には連続しているのに、国境という人為的な境界線によって、連続が断ち切られている。

周囲は漆黒の闇で、何も見えない。だが、ショッピングモールの壁面の広告の漢字と、停まっているフォルクスワーゲン・サンタナやアウディ100の古ぼけた様子が、中国に来たことを実感させてくれる。サンタナは合弁生産されたもので、ドアに“公安”と記され、アウディ100のボディは、オリジナルの倍近くにストレッチされていた。

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ダイムラー・クライスラーの「Eクラス・エクスペリエンス パリ北京2006」(以下、パリ北京2006)は25日間を掛けて、E320CDIで移動しながら、フランスのパリから中国の北京までユーラシア大陸を東に進んでいく。

各車それぞれの燃費を競うことになっているが、それが第一目的ではない。
最も長いセクションでは、嘉峪関から蘭州まで一日に750km走ったが、その日も給油は蘭州の街に着いてからの一回だけだった。
“一回も給油せずに、長距離を走れる”というディーゼルエンジンの好燃費を実証するのが第一目的だ。

でも、いわゆる“省燃費”運転をずっと続けるような参加者はいない。
ポーランドチームがカザフスタンのバルハシからアルマティまでの一日だけ、燃費計と睨めっこで、いわゆる“省燃費”運転をやっていた。

どんなに素晴らしい景色に遭遇してもクルマを停めることなく、トイレ休憩の回数を極端に減らし、どこにも停まらない。
遅いトラックに引っ掛かっても、E320CDIのディーゼル・エンジンの図太いトルクと優秀な7速AT「7Gトロニック」の威力も最小限に使うだけ。
ジンワリ、ゆっくりと加速させるだけに止めなければ好燃費は達成できない。

でも、そんな風に走ったって、面白くもなんともない。
ここはテストコースじゃないんだから。

●4.昔のSF未来都市 カザフスタン・アスタナ

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パリ北京2006は、移動しながら距離を重ねていく。
どこか一カ所に集合し、イベントが終わったら解散するというものではない。

パリから北京までの超長距離移動そのものがイベントなのだ。
36台のE320CDIと9台のG230CDIその他が、ひとつの生命体のようにユーラシア大陸を駆け抜けていく。

生命体がどのようにして、一日を送っていったのかを説明してみたい。

朝は、8時か9時にホテルを出発し、夜に目的地のホテルにチェックインする。
何らかのレセプションが行われる晩もあるが、何もなければ各自ホテルで食事を摂って、あとは眠るだけ。簡単に言ってしまえば、その繰り返しだ。

どんな決まりごとがあって、どんなスケジュールで、壮大なるパリ北京2006が進行していったのか。

最も厳格な決まりごとは、前述の給油に関してだった。
一日一回、決められた給油しか認められなかった。
もっとも、毎朝満タンで出発し、目的地に到着する前でも、いつも燃料残量には余裕があったから、ガス欠を危惧するまでもなかった。
だから、途中で給油する必要も生じなかった。

万が一、何らかのアクシデントによって燃料が足らなくなったら、主催者に無線か携帯電話で連絡を取ることが義務付けられていた。

燃費を競い合っているからという理由もあるが、それよりも、E320CDIのディーゼルエンジンが所期の性能を発揮するためには、成分が不明な通過地のガソリンスタンドの軽油を入れるわけにはいかないという理由が大きいからだろう。

軽油は、イベントのパートナーであるアラル石油が巨大なタンクローリーで運んできていた。

 

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各レグが始まる前日に行われるブリーフィングでは、給油についての他に、注意事項について説明が行われた。
パリ北京のダイレクターであるダイムラー・クライスラーのPRマネージャー、フローリアン・ウルビッチ氏が毎回マイクを執っていたが、必ず彼が厳しい表情で僕ら参加者に伝えたのが、警察への対応方法だった。

「各地の交通法規は必ず守るように。主なものは、手元のハンドブックに記してあるので、確認しておいて下さい。街を外れればクルマの数が減って来るが、スピードの出し過ぎにはくれぐれも注意。あなたたち参加者が交通法規を破って、もし監獄に入れられるようなことになっても、ダイムラー・クライスラーはあなたたちを助け出すつもりはありません」

ウルビッチ氏は、傍若無人な振る舞いは許されませんよ、と事前にクギを刺した。

その他に決められているのは、国境は全車まとまって通過しなければならないことぐらいか。決まりらしい決まりは、そんなに多くはない。

朝、ホテルを8時か9時に出発する時も、先を争って走り始めるわけではない。
スタッフが、クルマと参加者の数を確認し終われば、あとは次の目的地で給油するまで、チェックされることは何もない。
つながって走るわけでもないし、どこに停まっても構わない。

昼食は、ホテルでの朝食時に昼食用に用意されるサンドイッチや果物、飲み物、菓子などを適当に選んで持っていく。
車内で食べても構わないし、どこか景色のいいところにクルマを停めて、写真を撮ることだってできる。
朝、ホテルを出発したら、給油までは基本的に自由だ。


 

それぞれのクルマには発信器が取り付けられており、人工衛星へ向けて、つねに電波が送られている。
一緒に移動しているスタッフのクルマだけでなく、ドイツのイベント事務局にも、すべてのE320CDIの位置が把握できるようになっている。
その情報は、ウェブサイトにも同時にアップされているから、世界中の人々が、どE320CDIがどこを走っているか、リアルタイムでわかるようになっている。

それでなくても、以前に書いたようにガーミン製のGPSが優秀で、ルートブックがとてもわかりやすく記されているから、道に迷って途方に暮れるようなことにはならなかった。
ガーミン製GPSの優秀性について、以前にひとつ書き忘れたことがある。
目的地と違う方向に向かった瞬間に、モニター画面上のそれまで減り続けていた所要距離が、一転して増え始めるのだ。
これなら間違えることはない。

目的地に着くと、まず道路脇の広場などで先回りしているアラルのタンクローリーから給油を行い、ホテルにチェックイン。

すぐに夕食だが、ホテルのレストランの場合もあれば、バスで移動してレストランに出掛けることもある。
ゲストを迎えることもある。

カザフスタンの新首都アスタナでは、副市長のスピーチを聞き、カザフスタンとアスタナの街の宣伝ビデオを見た。アスタナは、10年前にそれまでのアルマアタから移した新しい首都だ。

「これから発展が約束されているカザフスタンとアスタナを、よく見ていって欲しい」

副市長をはじめとして、カザフスタンの人々の顔付きは、僕ら日本人によく似ている。2003年にウラジオストクから旧々型カルディナでロシアを横断し、ヨーロッパに行った時にも、僕らソックリの容貌をした連中が住む地域を通った。例えば、バイカル湖の東に位置するブリヤート自治共和国の首都ウランウデ。街を歩いている男が、全員、朝青龍に見えた。

中央アジアにはさまざまな民族が存在していて、一様ではない。日本人の起源はひとつではないという学説が有力らしいが、カザフスタンを走っていると、この辺りの人々の先祖が古代の日本列島にやって来て、日本人の元祖のひとつとなったと確信できる。それほど似ている。ユーラシア大陸を延々と走って来ると、そういったことが肌と感覚で感じ取ることができるのだ。

話を戻すと、カザフスタンの新首都アスタナの副市長がスピーチの中で自慢していたのが、まったく新たに建設している首都の都市計画は日本の黒川紀章によるものだということだった。

翌朝、パトカーの先導によって、パリ北京2006の一行は真新しい国会議事堂や広場などの間を抜けてアスタナを後にした。
球状の展望台(?)のようなものを串刺し状にした塔など、もう完全に昔のSF映画のセンスなのが微笑ましかった。
“科学技術は万能で、明日は必ず今日より良くなっている”という世界観。
先月の東京都知事選でのハジけ方といい、黒川紀章って面白い。

パリ北京2006の一行は、位置情報をドイツ本国とやり取りしているだけではなく、毎日、情報を発信していた。
インターネット&携帯電話万能時代だから、どこからでも情報と画像をサイトにアップすることができる。
オフィシャル・ウェブサイトだけでなく、参加者が自身のブログに書き込んだり、ウェブニュースに寄稿しながら、移動していた。

主催者は衛星携帯電話を用いた無線LANネットワークを構築していた。
ホテルのロビーの一角に機材を設置し、参加者誰でもが無線LANを使えるようにしていた。
僕も、メールのチェックや日本のニュースなどを見た。

インターネットや携帯電話などによって、パリ北京2006の一行は、つねに自分の家族や仕事仲間と連絡が取れる範囲を形成しながら、旅を続けていった。
99年前に、すでにクルマによって北京からパリまでは走られていたが、電波とデジタル情報によってつねに世界中とつながりながら旅し続けられるのは、現代ならではだ。 

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●5.ホームステイ カザフスタン・バルハシ

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ダイムラー・クライスラー主催の「パリ~北京2006」が進むコースの標高をたどっていくと、距離にして最初の半分以上が500メートル以下の平らなところを通っていることがわかる。
 
パリからシュットガルトを経由してベルリンに向かう最初の3日間こそヨーロッパ・アルプスの麓をかすめるために標高600~700mのところを通過する。
 
だが、ベルリンを過ぎ、ポーランドとバルト3国を経由し、サンクトペテルブルクからロシアに入っても、標高は低いままだ。
 
ペルミからエカテリンブルクへ、ウラル山脈を越える際にも、標高は500mを少し越えるに過ぎない。
 
カザフスタンに入国し、コスタナイ、アスタナと進むにつれて、少しずつ標高が上がっていく。ロシアまでは白樺林が続いていたのが、カザフスタンに入ると、カザフステップと呼ばれる草原が続いていく。地平線まで見渡される、ゆるやかな起伏を持った草原が360度広がり、羊や山羊、牛などが放牧されている。
 
9年前にアルマトイから遷都した、新首都アスタナからバルハシに向かう途中から、道は次第に急峻になっていった。
 
道の大半は片側1車線で、もちろん対面通行。交通量は、日本の常識からすれば、ものすごく空いている。対向車や後続車が、全然来ないことだってある。遭遇するクルマは、トラックや地元の乗用車。E320CDIよりも高性能で速いクルマは、出てきそうもないし、実際、遭遇することもなかった。
 
だから、少なくともカザフスタンを走っている間中は、E320CDIは他のE320CDI以外のクルマに追い越されることはなかった。遅いクルマを追い越すことの連続だ。
 
その中でも、急勾配が続くアスタナからバルハシまでの区間は、特にE320CDIの持ち味である、ディーゼルエンジンの極太トルクと7速AT「7Gトロニック」のパフォーマンスを満喫することができた。
 
例えば、時速100kmから120kmぐらいでしばらく巡航していて、前方に追い越すべきクルマが見えてきたとする。
 
対向車の有無、道路の先が上っているか下っているか、ブラインドコーナーの有無、左右からの進入路の有無などで周囲の安全を確認できたら、すばやく追い越しにかかる。
 
左にウインカーを出し、対向車線に出ながら、スロットルを深く踏み込んでいく。
 
E320CDIの3リッターV6・24バルブDOHCディーゼルターボ・エンジンは、211馬力の最高出力と55.1kgmの最大トルクを発生している。3.5リッターV6ガソリンエンジンを搭載するE350と較べると、272馬力という最大出力はかなわないが、トルクは35.7kgmと較べものにならない太い。それも、最大トルクを1600回転という低い回転域から発生するのだから、100km/hぐらいからの加速には、まさにピッタリなのである。
 
道路が下りか平坦ならば、急激にスロットルペダルを開けない限り、7速ないし6速のままで前のクルマを追い越すことができる。
 
少し勢いを付けながら深めに踏み込めば、すかさずキックダウンが効くから、加速は一層と鋭くなる。
 
はるか彼方に対向車の姿を見付けたり、道路の勾配がキツかったりした時には、キックダウンを待たないで、7Gトロニックのシフトレバーを水平方向に軽く自分の方にスナップすればよい。

マニュアルシフト機能付きのATやロボタイズドMTなど、オートマチックとマニュアル操作が組み合わされたトランスミッションは、さまざまな方式のものが製品化されているが、シフトレバーを左右に動かすことによって変速するのは、「7Gトロニック」だけだ。
 
シフトレバーを前後に動かすことについては、個人的には手前をダウンシフトにした方が減速G(重力加速度)と一致しているので好ましいと考えている。その証拠に、レーシングカーやレーシングバイクが、その通りなのだ。でも、そうではないと考える自動車メーカーの方が多いから、この“左右方式”はアイデアものだ。減速Gの方向に囚われずに済むからだ。
 
キックダウンを用いず、ダウンシフトで1段落とせば間違いなく追い越しは完了する。まれに、勾配が急だったり、長いトレーラートラックを2台まとめて追い越したりする時に、2段落としたこともあった。いずれにしても、E320CDIの極太トルクがあっての安心感だった。
 
急峻な山々ではなく、広大な丘陵地帯を駆け上がっていくようにして標高を上げた末に、突然、目の前に現れたのがカラガンダの街の遠景だった。カラガンダは、アスタナとバルハシの間で唯一の大きな街だ。大きな丘の斜面を駆け上がり、その頂を越えた瞬間に、目の前が開けた。
 
カラガンダの街が、まるごと姿を現した。それは、ショッキングな光景だった。大きな工場から突き出た何本もの高い煙突から、真っ黒な煙がモクモクと吐き出されているのである。
 
カラガンダの街の周囲には何の建物も存在しないから、街と街の中にある工場群は、海の底で毒を吐きながらジッとしている深海魚のようだ。煙は途切れなく延々と、見えなくなるまで地平線の向こうへたなびいていた。
 
自然から都市(人工物)へは、混じり合いながら、なだらかに変化していくところがほとんどなはずなのに、ここでは何の前触れもなく、カザフステップの頂の向こうに、唐突に街が出現する。あの“砂漠の幻影都市”であるアメリカのラスベガスだって、道路脇の広告看板やロードサインなどが徐々に増えていきながら、街が出現するのだ。

それが、ここではカザフステップという大自然そのものと醜悪な人工物との、あまりにも対照的に存在している様子が異様だった。こんな光景は見たことがない。
 
唐突と言えば、カラガンダを過ぎてしばらく走ったところで遭遇した慰霊碑群も何の前触れもなかった。
 
ゆるやかな起伏とカーブの続く草原の中を走っていくと、道の左側に駐車スペースが広がっていた。でも、観光用のものやドライブインなどではなさそうだ。
 
入り口付近に、大きな抽象彫刻のようなモニュメントが建てられてある。用いられている石や金属の様子からして、そんなに古そうではない。それと向き合うようにして、少し小ぶりの石碑がずらりと並んでいる。刻まれている言葉はロシア語やカザフ語ではなく、ドイツ語やイタリア語のものが多い。
 
さまざまな形をした石碑に、各々のデザインが施され、イースター島のモアイ像のように、整然と並んでいる。刻まれている言葉の内容は判然としないが、年号から想像するに第二次大戦の時のもののようだ。
 
最後のひとつの石碑を眼にした途端、僕は一瞬、息が止まり、その場に立ち尽くした。

「平和鎮魂 日本人埋葬碑 全抑協会長 齋藤六郎」
 
日本語を刻むことができなかったのだろう、印刷された金属製プレートが石碑に埋め込まれていた。
 
第2次大戦終結時に、当時、満州や中国にいた日本人の約60万人が捕虜としてソ連当局によって連行され、ソ連各地の1200カ所の強制収容所に送り込まれた。
 
日本の旧厚生省が作成した資料によると、それらは現在のロシアだけでなく、カザフスタンやキルギスタン、ウズベキスタンなど旧ソ連を構成していた国々にも、広く分布していた。資料によれば、カラガンダとバルハシには、1万人以上の日本人を収容する収容所が存在していた。エカテリンブルクにも、途中のアクモリンスクというところにも、収容所はあった。酷寒と飢えと重労働によって亡くなった人は、7万人以上に上ったという。
 
強制収容所についてはさまざまな文献に記録が残されているが、僕は辺見じゅんの大宅賞受賞作品『収容所から来た遺書』を数ヶ月前に偶然に読み終えたばかりだったので、強いショックを受けた。ハイペースで走り続けても風景がほとんど変わらず、何もないような大草原の真ん中である。こんなところにまで連れて来られたのか、と。
 
収容所は、カラガンダやバルハシの街に近いところにあったのかもしれない。そうだったとしても、シベリア鉄道で何日間も日本とは反対方向に連れた来られた時の不安感や焦燥感は、いったいどれだけのものだっただろうか。おそろしくて、僕には想像することすらできない。

 

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それに較べれば、僕らはハードスケジュールとはいえ、毎晩柔らかいベッドで眠れ、美味しい食事に事欠かず、運転中はCDで音楽まで楽しみながら、極めて快適にE320CDIでここまで移動して来れた。この石碑群の前で停まらなかったら、62年前に悲惨な眼にあった日本人の方々のことなど何も気に留めることなどなかったに違いない。歴史のうねりのようなものに打ちのめされ、しばらく石碑の前から動くことができなかった。
 
大きなバルハシ湖の畔のバルハシ市には、暗くなってから到着した。街の中心部では、僕らの到着を待っていた地元の人々から大歓迎を受けた。市庁舎や公会堂などが集まる、ソ連時代だったらレーニン広場と呼ばれていたところにE320CDIを停め、公会堂で歓迎セレモニーが開かれた。
 
ここでの重要行事は、僕らとホストファミリーが引き合わされることだ。バルハシ市には全員が宿泊できるだけのホテルが存在していないために、あらかじめダイムラー・クライスラーと市当局が協議し、参加者を地元の家族のもとで宿泊させることになっていた。
 
僕のホストファミリーはメディエール君一家。25歳のメディエール君は弁護士で、会場には鉄道会社に勤めるガールフレンドと来ていた。彼の旧型BMW525iに10分ぐらい乗せられて、家に着く。ご両親はパン工場を経営しているとかで、自宅は大きく立派だった。お父さんは、トヨタ・シエナに乗っている。彼も彼の家族も、ガールフレンドも、見た目は僕ら日本人と一緒だ。
 
お母さんお手製の夕食をご馳走になり、お互いに写真を見せたりして、民間親善に務めた。

「カプースタ」という、キャベツ、ナス、ニンジンなどをハーブやニンニクなどと一緒にマリネしたサラダや、「ジャルコエ」という牛肉とジャガイモの煮物が美味しかった。どちらも、ハーブやスパイスが効いていて、西洋料理とも中華料理とも違った味だ。
 
彼らの関心が強かったのは、日本でのクルマの価格だった。日本車はカザフスタンでも人気だったが、ほとんどが中古車として輸入されたものばかりで、それも安くはなかった。シエナは日本で売られていないが、エスティマや新型5シリーズの価格を例に挙げて説明すると、その安さが信じられないという。中古とはいえ、輸入車はまだ高級品なのだ。 

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●6.一瞬、中国人になった 中国・イーニン

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カザフスタンとの国境を越えて、いよいよ中国に入った時は、気持ちの昂りを抑えることができなかった。
ダイムラー・クライスラー社が主催する「Eクラス・エクスペリエンス パリ北京2006」(以後、パリ北京2006)に、ぜひとも参加したくなった動機のひとつは、未知の中国を自分の運転で旅することができるからだった。

現在、中国では原則的に外国人がクルマを運転することが認められていない。
外交官や学術調査などの明確な目的がない限り、外国人用の運転免許証が発給されることが、まずないことを2003年に調べて知っていた。
自分のトヨタ・カルディナで、ユーラシア大陸横断旅行を計画し始めた時に、真っ先に考えたのが、中国からロシアに抜けるルートだったのだ。
禁断の中国を走れる。興奮しないわけがない。

国境の厳しい検査で時間を取られ、一般道を走り始めることができたのは、午後10時を過ぎていた。
最初の宿泊地であるイーニンの街まではそんなに遠くはないはずだが、周囲が真っ暗で何も見えない。
道の両側には林や畑らしきものが広がり、時々、人家の前を通り過ぎる。
質素な家々の部屋には裸電球がブラ下がり、どこの家でもテレビを映していた。

暗闇に目が慣れると、前方にトラックやトラクターが走っているのが見えてくる。
こんな時間まで農作業ご苦労さんと労っている場合ではない。
彼らのクルマは、ほとんどテールライトを点灯していないので、接近する間際までわからないのだ。
故障しているのか、故意に付けないのか。
よく追突事故を起こさないものだ。

 

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翌朝、ホテルをチェックアウトし、昨晩通った道を戻って、東へ進む幹線道路へ向かう。
昨晩、遅くまで働いていた農夫がいた通り、イーニン郊外は一大農村地帯だった。
見渡す限り、畑と牧場が広がっている。

荷台一杯に積んだ干し草がボディ全幅の倍以上あるトラック、羊と人間を一緒にギュウギュウ詰めにして運ぶトレーラー、3輪の軽自動車くらいの大きさのトラック、オートバイやスクーター、自転車、荷物を背負い馬や山羊にまたがっている人々。

道を行くのは自分の肉体を使って、動物と自然相手に働いている人たちばかりだ。
4輪と3輪と2輪と4足の違いはあれど、みんな、なにか乗り物に荷物を乗せて移動している。

大小さまざまの荷車を山羊や馬、牛に曵かせている人も多い。
乗用車は、ほとんど走っていない。
クルマで一番多いのは、3輪もしくは4輪の軽自動車サイズのトラックだ。
大きさもさまざまで、現在の日本の軽自動車よりも小さなものは、カン高い排気音と排ガスを撒き散らしながら、走り去って行く。

小学生らしい子供が3人、軽自動車サイズのトラックの荷台に、羊と一緒に乗せられていた。
子供たちは学校へ、羊たちは市場に連れて行かれるのか。
ここでは、人間と動物との距離がとても近い。

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軽自動車サイズのトラックや、荷台を持たない“乗用タイプ”は、イーニンを出発した後も、各地でたくさん眼にした。
大きさやスタイリングなどが、多種多様だ。
だが、エンジニアリング的にも、生産技術的にも日本の軽自動車とはほど遠く、ちょうどタイのトゥクトゥクやフィリピンのジプニーなどとの中間に位置している。
シャシはもちろんモノコックなどではなく、おそらく簡易なバックボーンフレーム式だろう。
当然、サスペンションはリジッドだろうから、全高が高い割りに中は広くない。
3輪のものの中には、ステアリングがバーハンドルのものもあった。

ボディはFRPもしくはアルミ製だが、応力は受け持たず被さっているだけだ。
FRPならメス型、アルミなら金型があるような代物ではない。
面の均一性、張り、チリなどから、どうやら板状のものを切り貼りして組み立てているように見える。

各地でさまざまな“車種”を見たので、おそらく大量生産されているわけではないのだろう。
小規模に、ローテクでハンドメイドに近い形で生産されているのではないだろうか。
中国の自動車生産台数の伸びが著しいとニュースになっているが、こうした“クルマ”も一台にカウントされているのだろうか。
安全や環境負荷の面を考えただけで、僕らが定義するクルマと同じものとは簡単には呼べない。

バタバタバタッと単気筒エンジンの排気音を響かせながらトコトコッと駆けずり回る、この手の軽自動車サイズのクルマは完全なシティカーで、街と街をつなぐ幹線道路には出て来ない。
北京や蘭州の中心地にも走ってはいないが、その周縁や郊外では、たくさん走っていた。

軽自動車サイズのクルマに限らず、中国人のクルマの運転には、一見すると規則性がない。

混み始めると、すぐに反対車線を行く。
路地から大通りに出る時には一時停止する。
交差点のない道の中央に停まってUターンする。
交差点のはるか手前から右折する等々。
欧米や日本で同じことを行ったら事故を引き起こすか、違反切符を切られるようなことばかりだ。
「パリ北京2006」の参加者の中には、そうした“中国式”の運転を受け付けず、辟易していた人もいたが、僕は気にならなかった。

なぜならば、僕らは中国の人たちが乗っているクルマとは比較にならないほど速く走れるメルセデスベンツE320CDIに乗っているから、彼らとはスピード域が噛み合っていないから彼らが危なっかしく見えるのではというのが、まず第一の理由。

二番目には、危なっかしそうなドライバーたちでも、ちゃんとアイコンタクトをしてきている。
だから、こちらもそれに応えながら運転すれば、それほど怖くはない。

結論としては、クルマの運転“作法”の違いといっても、所詮は、人間の営みなのだから、風土や歴史、文化が異なれば、一緒に変わっていくものだ。
違っていて当たり前。
日本や欧米と同じだったら、気持ちが悪い。

たしかに欧米や日本の、自動車と自動車を使う文化が高度に発達していることは間違いないのだが、それは相対的なものでしかない。
中国の人たちの運転やクルマの使い方などと僕らとの違いをいちいち挙げつらってみても、何の意味もない。
危ない時は、どこでも危ないのだ。

 

日本や欧米では交通法規やマナーなどのシステムが確立されている(異論もあるが)から、ルールに身を委ねていれば、安全運転と直結する。
中国では、システムが未完成だから、自らの感覚を研ぎ澄まして、自衛しなければならない。
歩行者だって、そうしている。

だから、中国に限らず、外国でのクルマの運転は、違いをよく認識した上で、郷に入りては、郷に従うべきなのだ。
自分が中国人で、3輪軽自動車モドキに乗っていたとしたら、どう運転しているか。

想像力が大切になってくる。

万里の長城の西端の地である嘉峪関のホテルにチェックインする前に、毎日の行事として給油を行った。
隣の広場にアラル石油のタンクローリーが停まり、給油設備が設営されている。
僕らはE320CDIでホテルのエントランスに入ったものの、一度、そこを出て、大通りを少し走って、隣の広場に入らなければならない。
給油を済ませ、ホテルに戻る。
腹も減っているし、熱いシャワーも浴びたいから、一刻も早くチェックインしたい。

しかし、大通りには中央分離帯があるから左折は不可能。
右に出て、はるか先の信号でUターンし、ホテルの前を通り過ぎてロータリーを4分の3以上回らなければ戻って来れない。

ちょっと面倒臭いかナと思った瞬間に、昨晩泊まったハミの街で、歩道を当たり前のように走るタクシーと、それを咎めようともしない歩行者の群れを思い出した。
次には、クルマの来ないロータリーを逆走していた
軽自動車モドキの姿も脳裏にフラッシュバックした。

ちょっとの罪悪感はあったが、僕は思い切ってハンドルを左に切って、ソッと広い歩道にE320CDIを進めた。
薄暗い歩道にはたくさんの歩行者がいたが、自然と道を開けてくれる。
誰も、こちらに見向きもしない。

「全然、平気じゃないですか」

助手席のK君も呆気にとられている。
歩道から車道のロータリーに戻らなければならないが、何度も確認して、5メートルぐらい逆行して、再びホテルのエントランスにE320CDIを進め、荷物を降ろしてチェックインした。
慣れない外国人のくせに意図して交通法規違反したことなど褒められたものではないし、こうしてわざわざ自ら書き記すことでもないだろう。

杓子定規に言ってしまえば犯罪だが、杓子定規では済まないのが中国のストリートではないか。

中国人の運転作法とクルマに対する姿勢のホンの一端を瞬間的に共有することができた。
一瞬、自分は中国人になれたのだ。
たった200~300メートルの距離のことだったが、海で泳ぎながら放尿した時のような、ちょっとバツの悪い解放感に包まれながら、スッキリした。 

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●7.もうダメだと眼をツブった 中国・ウルムチ

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上り勾配の頂点の向こうから現れたトラクターに激突するのは避けられないと観念した。
 
イーニンからウルムチに向かって、新ピョウウイグル自治区の高速道路を走っている時のことだった。
 
周囲は見渡す限りの砂漠で、ところどころに簡素な建物がポツリポツリと建っているだけの原野だ。チャイナ・モバイルと記された、周囲と不釣り合いなほど立派で新しい携帯電話の中継アンテナが屹立している。おかげで、持参したドコモの国際通話対応モデルのモニター画面上のアンテナが、5本立っている。
 
中国はここ数年、猛烈な勢いで高速道路網の整備を急いでいる。総延長距離では日本を抜き、アメリカに迫る勢いらしい。
 
いま走っている高速道路も、できたばかりらしく、アスファルト舗装にはまだ油脂分が浮き出ていて、壁のコンクリートは白っちゃけたままだ。そこを走っているクルマは少なく、ほとんどが大型トラックだ。
 
トラックは非力だから上り坂では歩くように遅い。その上、ブレーキが貧弱だから、下り坂では用心して低いギアを選んで、ガァガァとエンジンブレーキ音を響かせながら下っていっている。
 
新設された中国の高速道路におけるトラック群とメルセデスベンツE320CDIのパフォーマンスの対比は鮮やかなもので、自転車レースに迷い込んだスーパーバイクのようなものである。勾配の厳しいところでは、トラックがまるで停まっているかのように見える。
 
E320CDIの高性能を認識できるはずもない中国人ドライバーを相手にするには、こちらにも細心の注意が必要だった。
 
しかし、まさか片側3車線の高速道路の、それも追い越し車線をトラクターが堂々と逆行してくるなんて想像することさえできなかった。
 
アップダウンが続くその区間では、右側通行一番右側の走行車線を、大型トラックがゆっくりと走っていた。そこへ、それより少しだけ速いトラックが追い付いたので、中央車線から追い越しに掛かった。
 
高速道路がちょうど上りに差し掛かったので、追い越しは遅々として進まない。2台のトラックの後ろから様子を見ながら走っていた僕らも、シビレを切らした。幸い、一番左の追い越し車線の前にも後ろにも、クルマはいない。
 
7速、1600回転、120km/h前後で流していたE320CDIがトラック2台を上り坂で抜くなんてワケないことだ。
 
そのままスロットルベダルを踏み込むんでいくだけで、ラクに追い越すことはできるのだが、“追い越しは、距離も時間も短く”の原則を守って、ハンドルを握っていたT氏はシフトレバーを自分の側にスナップしてギアを6速に落とした。
 
E320CDIは、微かなハミングを伴ってディーゼルエンジンの回転を上昇させ、加速を始めた。トラックに近付き、一気に追い越した……。
 
と思った瞬間、心臓が喉から飛び出しそうになった。
 
一番左の追い越し車線を、ゆっくりとこちらに向かってくるトラクターがいるではないか!

「ウエッ!?」
 
T氏と僕は、同時に短く叫んだ。
 
長い上り坂の頂点に隠れていて、見えなかったのだ。
 
ブレーキを掛けたが、間に合わない。中央車線には、いま抜いたばかりの大型トラックが来ているから戻れない。追い越し車線には、後続車も迫って来ている。

「なんとか、避けてくれっ!」
 
T氏はヘッドライトをパッシングし、ホーンを鳴らした。
 
正面衝突だけは避けるべく、T氏はルームミラーで後続車との車間距離を測りつつ、ジンワリとブレーキを掛けていった。
 
しかし、トラクターが僕らのクルマと大型トラックに気が付いたとしても、いまから路側帯に戻れるスピードと時間を持っているとは思えない。
 
こうして書くと、とても長い時間が流れていたように思われるかもしれないが、10秒以下の短い間のできごとだったのである。
 
可能な限り減速したら、追い越したはずの大型トラックが、もう真横に並んで来ている。右には行けない。こっちが見えているはずなのに、トラクターは変わらぬペースでトコトコとこちらに向かってきている。

「もうダメだっ!」
 
それでもT氏はE320CDIを右のトラックにギリギリに寄せ、トラクターと衝突する面積を少しでも小さくして被害を最小限に減らそうと最後まで努めた。
 
ビュンッ。
 
奇跡的に、E320CDIはトラックともトラクターとも、衝突はおろか接触すらすることなく、走り抜けることができた。

「いまの見たっ!?」

「あいつ、ギリギリでハンドル切って乗り上げたでしょ!?」

「切った! 切った!」
 
トラクターの運転手が、近付いて来るE320CDIを見て、ニヤッと笑みを浮かべながらハンドルを内側に切ったのだ。
トラクターはヒョコンッと中央分離帯に乗り上げ、その分だけ追い越し車線へのボディのハミ出し量がなくなり、窮地を脱することができた。

「なんか、あいつ、全然あせっていなかったよね」

「うん、眼が合ったけど、余裕の表情だった」
 
トラクターのドライバーには、すべてが見えていたに違いない。
“遠くから疾走してくるE320CDIが大型トラックを抜きに掛かるだろうが、こちらを見付けて彼らは慌てるだろう。でも、ギリギリ大丈夫。こっちが中央分離帯にちょっとだけ乗り上げてやるだけで、全然問題ないサ”
 
トラクターのドライバーは、そんな心づもりだったのではないだろうか。僕らは、そんな想像をしながら無事を喜んだ。
 
大袈裟ではなくて、ホンの数センチどちらかにズレていたとしてもブツかっていた。
 

でも、どう考えても、あのトラクターのドライバーには、すべて見透かされていたとしか思えない。そうでなかったら、あの微笑みはないはずだ。偶然避けられたとしたら、よほど肝の据わった男なのだろう。
 
いずれにしても、おそるべしは、中国人。僕らとは、まったく違った価値判断でクルマに接しているとしか思えない。
 
トラクターも、よく考えてみれば、どこからやって来たのか不思議だ。有人の料金所でチケットを受け取って、入ってきたのか。
 
中国の高速道路には、トラクターだけでなく不思議なものとよく遭遇する。これも、西の外れの新ピョウウイグル自治区の同じ高速道路を走っていた時のことだ。
 
真新しい高速道路の外は、黄土色の砂漠と岩山が地平線まで続いている荒野。土と岩の色こそ違えども、アメリカのアリゾナやユタのデザート地帯と良く似た景観のところだった。遠くには、野生のラクダが群れをなしていた。
 
周囲に人っ気のないところを貫く高速道路の路肩の何十kmかおきに、ポツンポツンと清掃人がいて、竹ボウキでセッセと道を掃いているのだ。
 
初めは、何かの道路工事が終わった後片付けをしているのだと見ていたが、これが違った。ほぼ規則的に、ポツンポツンッと立って掃いているのだ。
 
クルマで走ったって、こんなに長いところを、いったい、いつまで掃いているつもりなのか?
 
掃くのはいいけれど、掃き開始の部分はすぐに砂塵まみれになってしまうのではないか?
 
そして、この人たちは、ここにどこからどうやって来て、どこまでどうやって帰っていくのだろうか?
 
同じ高速道路には、ペットボトルを集めている人もいた。
 
こちらも数十kmおきにひとりづつ、巨大な布袋を背負って、その中に路端で拾ったペットボトルを詰め込んでいっているのだ。
 
こちらのトラック・ドライバーが、飲み終わったペットボトルを、ところ構わず窓から捨てていくのを何度も目撃した。きっと、リサイクル業者に売れるのだろう。
 
拾ったペットボトルで、自分の身体の何倍もの大きさに膨れ上がった布袋を背負って路側帯を歩く人の満足気な表情が忘れられない。いい稼ぎだったんだ。日焼けなのか、顔を洗っていないのか、おそらくその両方なのだろう。真っ黒な顔が笑うと、白い歯が鮮やかだった。
 
秋の陽は短く、すぐに暗くなる。遠くからでもよく目立つ矢印の電光掲示板が、高速道路の先で点滅していた。幅2メートル、高さメートルはある大きな矢印は右を差しており、追い越し車線にいくつも設置されていた。高速から下りて、一般道を走れというわけだ。
 
しかし、インターチェンジのようなものがない。いきなり、高速道路がなくなって、すぐ横の地面からなんとなく“生えて”いる一般道しか道がない。国内外でいろいろなところを走ってきたが、こういう終わり方は初めてだ。
 
終わり方?
 

インターチェンジもなければ、料金所もないということは、“終わって”はいないわけだ。つまり、未完成の高速道路を走ってきたことになる。どうりで真新しかったわけだ。

「完成していないが、せっかく作り終わったところをそのままにしておくのはもったいなから、注意しながら走らせよう」

「そうだ、そうだ。意義ナシ!」
 
そんな中国共産党高速道路管理当局の会議が思い浮かんでくる。トラクターや竹ボウキ掃除人、ペットボトラーなどの存在にも合点がいく。ということは、そんな未完成の高速道路での僕らの振る舞いこそが責められて然るべきものなのだ。大目に見てくれたトラクター・ドライバーの微笑みに、感謝しなければならない。失礼しました。謝々! 

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●8.中国高速道路事情 中国・蘭州

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中国の高速道路網は、猛烈な勢いで整備が進んでいる。

2001年には総延長距離が1万9000キロに達し、ドイツを抜いて、アメリカに次ぎ、世界第2位。翌2002年には2万5100キロと、恐ろしい勢いで距離を延ばしてきている。日本の総延長距離が約7000キロだから、中国の勢いの激しさがよくわかる。

ダイムラークライスラー(当時)のイベント、「Eクラス・エクスペリエンス・パリ北京2006」(以下、パリ北京2006)に参加して、僕も中国の高速道路を、カザフスタンとの国境の街イーニンから北京まで約4000キロほど走った。

たしかに、中国の高速道路の整備状況は目覚ましかった。360度、地平線まで見渡す限りの砂漠と岩山が連なった荒野でも、片側2車線の立派な自動車専用の高速道路が貫いている。

“こんなところまでも”と驚かされるような土地に、アスファルトのハイウェイが延びている。
中国は広いから、こうした光景は当たり前なのだが、“誰のため? 何のため?”といったクエスチョンマークが一瞬、頭をよぎる。

欧米のほとんどの高速道路の走行料金が無料なのに対して、中国では日本のそれのようにどこを走っても必ずキッチリと通行料金を徴収された。
その金額も、中国の物価を考えれば安くはなく、日本と比較すると感覚的に数倍もしていた。

走っているのは、大型トラックばかりだ。乗用車は、あまり見掛けない。
サービスエリアに立ち寄ってみても、トラックやトレーラーなどは何十台も停まっているが、乗用車は数少ない。

サービスエリアのレストランに入ってみた。料理見本が陳列されたショウケースもなく、ドアを開けるとガランとした空間が広がっているだけの素っ気なさだ。

これもまた粗末なテーブルと椅子が無造作にたくさん並べてあって、客たちは食事を摂っていた。

 

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失礼ながら、食べている料理を覗かせてもらうと、多くの人たちが小鍋をツツいている。
カセットコンロの上に乗せた小鍋に、傍らの皿に盛られた薄切り肉や青菜などを投入し、頃合いに煮えたところで引き上げて、手元のタレに付けて食べている。
コンロや鍋、食器類などは使い込まれ、端が欠けたりしているが、実に美味そう。
肉や野菜が新鮮で、鍋なので、当たり前だけど、できたてを食べることができる。

別のサービスエリア内では、高速道路の事業者が建てたビルとは別に、掘建て小屋が建っていた。看板の中に、“麺”の一文字を発見。

さっそく、ムシロのような布の扉をめくって中に入ると、床の地面むき出しのラーメン店だった。
客室とムキ出しでつながっている厨房を覗くと、大きなカマドがふたつ並び、グラグラとお湯が煮立った大鍋が乗せられている。
料理人は、麺の元となる小麦粉の塊と格闘している。
まな板の上でコネ終わると、伸ばし始めた。テレビの料理番組のまんまだ。
伸ばした生地を、今度はまな板に叩き付けて粉を振り、伸ばしては分け、伸ばしては分けてと、倍々に増やして麺にしていく。

手さばきの良さに見とれているうちに、麺は大鍋の湯の中に投入された。
ものの1分ぐらいで引き上げられ、丼に。
そこに、別のカマドで作られた具だくさんのツユが掛けられて一丁上がり。

日本のラーメンのようなスープヌードル・タイプではなく、具の入ったタレを麺の上からザッと掛けてあった。
イーニンの町外れの街道沿いで食べた麺も、同じようなものだった。
注文を受けてから、パンパンッと麺を叩き、スコスコスコッと野菜を刻み、ササッと茹でて、素早く完成。打ちたて、茹でたてが、マズいわけがない。

サービスエリアの食堂の小鍋ランチといい、エリア内掘建て小屋の“たてたて麺”といい、中国人って、なんて舌が肥えているのだろう。
作りたてが一番美味いことを知っていて、それをさまざまに実践している。

サービスエリアで摂る食事なんて、しょせんは“間に合わせ”に過ぎない。
移動中の空腹を満たすためだけのものだと妥協していない。

日本や欧米の高速道路のようなファミレス風の、工場で大量に調理冷凍された料理を加熱再生されたものなど食べないのだ。
ピリカラのタレが美味かっただけではなくて、僕は、食事を疎かにせず、美味しいものを追求する中国人の姿勢に感動した。

もちろん、中国と日本や欧米とのさまざまな事情の違いはあるだろう。
外食産業の発達具合が違うから、いちがいには断言できない。
しかし、僕には、小鍋ランチと2カ所での打ちたて&茹でたて麺によって、中国人の貪欲なまでの食への欲望を感じ取ることができた。

人間は、いろいろな種類の欲望を持っている。
衣食住という、生きて行くのに最低限必要のものに関しても、何をどう欲するかは、人それぞれだろう。
そうだとしたとしても、サービスエリアの小鍋ランチを見て、彼らの美味しいものを食べたいという欲望が突出していることがよくわかった。

衣食住と言えば、中国の高速道路のサービスエリアには、宿泊施設が設けられているところが多かった。
高速道路を降りたとしても、周囲にはホテルはおろか何も見当たらないようなところでは、トラックドライバーは自分のクルマかエリア内の施設で夜を明かすのだろう。

部屋までは見せてもらわなかったが、建物は質素なものだ。
これこそ、“間に合わせ”に泊まるわけだから当然なのだが、中国人は食ほどには宿泊に求めるものが少ないのだろうか。
次回は、試みに泊まってみたいものだ。

中国の高速道路のサービスエリアで楽しいのは、売店だ。
どこも大きな店を構えていて、いろいろなものを売っている。
日本のサービスエリアの売店の充実ぶりも、欧米のそれに較べればたいへんなものだが、中国もスゴい。
食料品や飲み物などは当然のこととして、石鹸やシャンプー、ひげ剃り、タオルや下着など生活必需品が豊富に揃っている。

中には、動物のぬいぐるみや花火なども売っているところがあったが、家で帰りを待っている子供へのお土産だろうか。

新ピョウウイグル自治区のイーニンから東へ向けて、毎日、メルセデスベンツE320CDIで高速道路を走り続けて行くと、サービスエリアの売店の品揃えが変わっていくのに気付く。
売っている商品は変わらないのだが、ブランドが変わっていく。
日本ならば、食料品や飲み物などの大量生産品は全国展開しているブランドが主力となるが、中国は違う。
地域毎で、どんどん変わっていく。
大量生産&消費される生活必需品は、全国区ブランド化していく日本や欧米のような消費と流通構造になっているのだろう。

例外もあって、カップラーメンの「今麦郎」は宣伝もよく見掛けるほどの全国区ブランドだった。
今麦郎に目を付けた同行のカメラマンSさんが見付けては、よく買って食べていたっけ。

食に関して、「できたて」を尊ぶ中国人らしく、売店ではガラス製の茶こし筒を売っていた。
お茶っ葉とお湯を入れれば、どこでも暖かくて煎れたてのお茶を、二杯程度楽しむことができる。
トラックドライバーが、休憩時に煎れたてのお茶を飲むためのものだ。

いかに本物の味に近付けるか、飲料水メーカーが開発に血道を上げ、全国あらゆるところに自販機を設置しようとする日本と、どちらが豊かなお茶の楽しみ方なのか。

サービスエリアのガソリンスタンドも立派で、サービスが充実していた。
E320CDIのタイヤ空気圧を確認するために、スタンドの裏に回ってみたら、独立したタイヤショップが営業していた。
4本の空気圧をチェックし、不足分を手際良く充填してくれた。
たしか、日本円で200円ぐらい支払った。

中国の高速道路は、トラックドライバーの“生活の場”でもあった。
荒野と荒野の間に点在する都市や街を往復して、荷物を運ぶ。
仕事に出発して、再び戻ってくるには何日も掛かることだって珍しくはないだろう。
国土の広大さと総延長距離の長さから、彼らの仕事の苛酷さは容易に想像できる。

総延長距離こそ世界第2位となったが、中国の高速道路網は発展途上にある。
貧弱な高速道路網しか持たない日本人がエラそうなことは言えないが、中国では、高速道路と携帯電話の巨大なアンテナがすべてに先んじて建設されている。
こうしてサービスエリアで小鍋ランチをうまそうに頬ばっているトラックドライバーたちが運んでいる物資によって、やがて荒野に街が建設され、人々が移り住んでくるのだろう。
その時、彼らにとって(総延長距離が世界第1位になっているかもしれない)
高速道路網は、街と街とを縦横無尽に自由に行き来できる、かけがえのない高速移動手段のひとつとなっているはずだろう。

 

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●9.火鍋と高級ヴィラ 中国・バダリン

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カザフスタンとの国境を越えて、中国を西から東に走って来た「パリ北京2006」(ダイムラー・クライスラー主催の「Eクラス・エクスペリエンス パリ~北京2006」)も、いよいよゴールの北京を目前にしていた。
 
北京入りする前日は、北京郊外のバダリン(Badaling)に一泊する。
そのバダリンへは、内モンゴル自治区のホフホト(Hohhot)から463km走っていく。
ホフホトで食べた、シャブシャブに似た火鍋が素晴らしく美味かった。
シャブシャブと違って、肉や野菜を泳がす鍋内のお湯にまことに滋味深い味が付いているのだ。それも、仕切りが付いているから2種類も!!
 
バダリンから北京までは78kmしかないから、ホフホトから一気に北京入りすることが十分に可能だ。
それまで、600kmや700km走っているのだから、わけない。
 
バダリンは、万里の長城観光のメッカだった。
万里の長城が、自然崩落やレンガの盗掘などによって、そのすべてが現存していない様子は「パリ北京2006」の道中でも目の当たりにしてきたが、ここは違う。
何方向へも延びた長城に観光客が登れるように整備されており、観光バス駐車場の周りは土産物屋が軒を連ねている。
 
その土産物屋街の脇道を1kmほど上がっていくと、今晩のホテルがあるはずだ。
スタッフから渡された旅程表には、「Commune by The Great Wall」とある。
コミューンとは、人民公社のことだ。「万里の長城人民公社」。
資本主義が導入されたとはいえ、中国は依然として共産党が一党独裁する社会主義体制を敷いている。
もしかして、今夜はマルクス・レーニン主義テイストの宿に泊まるのか!?
 
ちょっと心配しながら、山の中に入っていくと、目の前には超モダンな建物が建っていた。建物は、細い道沿いに何十も建っている。
あるものはコンクリート打ちっ放し、あるものは真っ白な壁、そして、あるものは竹を加工したファサードと、すべての建築デザインが異なっている。
でも、現代的なテイストという点は統一されている。
 
ここは、いったい何なんだ!?
 

今晩我々が宿泊する高級ロッジだった。
僕とSカメラマンは中ぐらいの一軒を割り当てられ、1階と2階のひと部屋ずつを使った。
共用のリビング/ダイニングスペースまで用意された贅沢な作りで、長旅の疲れと垢を落とすことができた。
 
日本の建築家・隈研吾氏もプロデュースに加わったとパンフレットにある。
豪華なロッジという点では見事なものだが、中国にある必然性がまったくない作風だ。
同じものがヨーロッパにあっても、アメリカにあっても、日本にあってもおかしくはない。逆に考えれば、デザインが土着していないインターナショナルなホテルを建てられるようになったという時代の変化の痕跡を、建築家と施主は表現したかったのかもしれない。
コミューンとは、中世ヨーロッパで住民に自治が任された都市を示すフランス語でもある。このホテルも、ある意味“自治都市”のようなものだ。
 
コミューンでのパーティには、ディエター・ツェッチェ、ダイムラークライスラー(当時)CEOがやって来た。

「99年前に行われたのと同じことを、Eクラスが成し遂げた。
無給油で長距離を走れるというディーゼルエンジンの性能と耐久性を実証することができた。
パリを出発した36台が揃って、明日、北京にゴールできることを願う」
 
翌朝、バダリンから北京へのコンボイ走行は厳重なものだった。
先頭と末尾だけでなく、36台のE320CDIの間に何台ものVWサンタナのパトカーが入り、先頭には、なぜかナンバープレートが付けられていない公安関係と思われる旧型Sクラスが隊列を引っ張った。
旧型Sクラスも、白と青に塗り分けられたVWサンタナのパトカーもけっこうなペースで飛ばしていった。
ルーフの赤灯を点灯させながら、蹴散らすように集団で走行するから、さすがに北京っ子ドライバーたちも、ササッと進路を開けてくれた。
 
でも、渋滞にはかなわない。
ジャンクションやインターチェンジでは、散発的に渋滞が発生している。
まったく動かなくなることもあり、E320CDIから降りて、様子を探ったりした。
振り返ると、2008年の北京オリンピックのために急ピッチで建設が進められているスタジアムが眼に入った。
鳥の巣のように見える、巨大なスタジアムの屋根の上で作業員がせっせと仕事を進めていた。
屋根はなだらかに傾斜していて平らなではないから、よく滑り落ちないものだ。
 
パリから1万3000kmあまりを走ってきたE320CDIのコンディションも、さすがに良好とは言えなくなってきていた。日本組に割り当てられた2台のE320CDIは、一台が後輪駆動で、もう一台は4輪駆動の「4マチック」。
 
過酷な条件の道を、ふたりもしくは3人とその荷物を満載して、ハイペースで走ってきた結果として、ロードノイズやステアリングホイールへの振動が増え、直進性が損なわれて、エンジンのドライバビリティのわずかな劣化などが認められたが、どれも4マチックの方が少なかった。
エンジンからの駆動力を40%対60%の割り合いで、前輪と後輪に振り分けているから、ノイズや振動の増加が少なかったのだろうか。
明らかに、4マチックの方が消耗分が少なかった。

フィニッシュ会場へは、東長安街を東から進入していった。
片側7、8車線ある広い通りを、メルセデスベンツやBMW、アウディなどが群れるように走っている。
それも、ほとんどが最上級車、つまり、Sクラス、7シリーズ、A8だ。
Cクラスや3シリーズなどは、あまり見掛けない。
中小型車は、中国で生産されている外国籍車と中国メーカー車が中心だ。
ウルムチや蘭州などの大都市とは、明らかに走っている“クルマの相”が違う。
 
いくつ目かの赤信号で停まった時、右側に眼をやると、見慣れた光景があった。
天安門の正面に掲げられた毛沢東の巨大な肖像画だ。
左右にスローガンが記されていて、右側のは、おそらく「世界人民大団結万歳」という意味なのだろうか。略字でわからない。
 
ということは、僕らの左側に天安門広場が広がっているわけだ。
1989年6月4日に、ここで民主化を要求する民間人と学生に対して人民解放軍が武力弾圧を行った六四天安門事件の起こった場所である。
一般人に対して無差別に発砲が行われ、戦車によって轢き殺された。
当時、北京大学に留学中だった友人が、荷物も持たず身体ひとつで逃げ帰ってきていたから、感慨深い。
 
フィニッシュセレモニーでは、名前を呼ばれて一台ずつ壇上に駆け上がり、ゴールを切った。
 
その夜、北京郊外の「北京ベンツ」工場に向かった。
ダイムラー・クライスラーが中国の自動車メーカー「北京汽車」と合弁で立ち上げた工場だ。
クライスラー300Cやジープ・チェロキー、メルセデスベンツEクラスをノックダウン生産するのだ。
中国で作られる初めてのメルセデスベンツになる。
 
製造ラインに隣接した資材倉庫のような巨大な建物で、豪勢なパーティが行われた。
ツェッチェと中国側の社長がスピーチし、バンドの生演奏と豪華な料理がたんまりと振る舞われた。
この工場で作られたEクラスが、翌日から始まる北京モーターショーでも披露される。
 
ダイムラー・クライスラーのイベント責任者、フローレンス・ウルビッチにお祝いの言葉を掛けて労った。

「Eクラスは、品質面で問題を抱え、販売で苦戦していた。
問題を解決し終えたことを世界にアピールするために、まず昨年のディーゼル速度記録に挑戦した。
その次が、このパリ北京だ。この工場が操業を開始し、北京モーターショーも始まるから、タイミングは今しかなかった」
 
準備は大変だったんじゃないか。

「燃料の確保と、参加者の査証がすべて取得できるかが一番大きな問題だった」
 
試走は3回やったと聞いたが。

「3通りのルートを調べた。 99年前と同じルートは寒さが厳しく、ロシアからモンゴルへ抜けるルートはホテルが確保できないので諦めた。最後の試走では、各地のホテルと契約したり、GPSのウェイポイントをマーキングしたりした」
 
パリ北京2006は、壮大な露払いだった。
北京ベンツでのEクラス生産のために、パリからわざわざ大挙して駆け付けた。
なんというスケールの大きさだろう。
個人的には、カザフスタンと中国を走れたことが貴重な経験となった。
どちらも、カザフスタンを訪れる機会はあまりなさそうだし、外国人がクルマを運転するのが難しい中国でハンドルを握れたのが収穫となった。
世界は広い。 広いけれども、道でつながっている。
遠回りになるかもしれないけれども、クルマを運転していって良かった。 

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