Gallery
金子浩久書店の Photo Collection
2009年5月から2014年10月まで金子浩久書店ホームページ表紙を飾った写真です。
New York
ニューヨーク・マンハッタンをゆっくりと走っていたフォード・エクスプローラーのパトカー。
場所は、40丁目台のミッドタウンのウエストサイド。
マンハッタンにしては、たまたま道が空いていて、パトカーもノンビリしていたので撮ったショットです。
「東京は桜が満開ですね。NYCの春という感じなのでこの画像を選んでみました。いかがでしょう?」
その視点で見てみると、反対車線の歩道の街路樹のハナミズキが白い花を咲かせているし、たしかに陽射しも春っぽい。
人々の服装も重々しいニューヨークの冬ものから脱皮している。
撮っている時はパトカーに気が入っていて、春の雰囲気には気付きませんでした。
でも、画像は記録してくれていました。
不思議なものですね。
New York
バーの前に黒いシボレー・カマロが停まっていた。
観光客であふれ返るタイムズスクエアのすぐそばだけれども、そのバーはいかにも地元の人が集うようなバー。
カマロが地元の人のものかどうかはわからなかったが、
昼間から営業しているバーの前に黒いカマロが停まっているというその様子に素顔のニューヨークを感じた。
スカしたヨーロッパ車じゃなくて、やっぱりアメ車。
それも、黒のカマロ。マッチョで、クール。
世界中から観光客を集めるニューヨークも十分に魅力的だけれども、そうではない地元っ子たちのニューヨークは落ち着いていて、昔の東京のようなところもあって馴染める。
ニューヨークはパワフルな街だから、こちらも元気一杯で訪れないと楽しめない。
おカネも、他の街よりもモノを言うことは確かだ。
だから、ニューヨークへは準備万端で出掛けたい。
New York
マンハッタンからブルックリンブリッジの上のボードウォークを歩いて渡りました。以前は、倉庫と修理工場ばかりが軒を連ねる殺風景な一帯でしたが、多くのカフェやブティック、書店などが開店していて様子が変わっていました。
橋の降り口には、「dumbo→」という標識が掲げられていました。dumboとは、down under manhattan brooklyn overpassの頭文字から取られたもので、界隈を示す新しい地名だ。
イースト川沿いも芝生が敷き詰められ、天然の岩を自然の河岸のようにレイアウトされた気持ちのいい公園になっていた。
マンハッタンのソーホーと違ってうれしいのは、まだ、若者や地元の人たちの店ばかりという点だ。世界展開している大資本は、見た限りスターバックスコーヒーだけだった。オーガニックのカフェやレストラン、アメリカ製の服やバッグだけを集めたセレクトショップ、中古自転車販売&整備屋、アンティークショップなどが、ビルの中を小分けに区切って営業していた。
Chicago
2000年か2001年の冬。
しばらく生産されていなかったサンダーバードが復活し、アメリカで販売されても日本へ輸入される見通しが立っていなかったから、ニューヨークへ行った帰りにデトロイトへ寄って、フォードで借りて乗ってみることにした。シカゴまで往復した時にミシガン湖畔の水族館のある公園で撮影したものだ。
ラグジュアリーで、適度にレトロなサンダーバードでトップを上げ下げしながらアメリカのフリーウェイを走るのはいいものだった。
シカゴは前日まで寒波に見舞われていて、晴れ渡った青空の下でオープンにしている黄色いコンバーチブルが目立たないわけはなく、ニュースの小ネタを探していた地元テレビ局の撮影クルーに呼び止められた。
「天気がいいから、コンバーチブルのトップを開けて走りに来たよ」 限りなく誘導尋問に近いインタビューに応えた。
翌日、シカゴ郊外のオークパークを訪れた時に駐車場で「昨日のニュース見たぜ」と話し掛けられたから、ボツにはならなかったわけで、役に立てて良かった。
Los Angels
戦国武将の兜やヨーロッパ中世の騎士の鎧のような外壁の建物はロスアンジェルスのウオルト・ディズニー・コンサートホール。
2005年に出版した『レクサスのジレンマ』という単行本の取材のために彼の地を訪れた時のショットだ。
レクサスとは何の関係もないのだが、訪れた取材先の向かいにあったのでシャッターを切った。
フランク・ゲーリーという建築家によるものだ。
スペインのビルバオにあるグッゲンハイム美術館も、同じモチーフによる外観を持っている。
同美術館を初めて知ったのは、映画「007 ワールド・イズナット・イナフ」のアバンタイトルシーンでだった。
それにしても、ゲーリーは奇抜なかっこうをした建物ばかりを建てる建築家だ。
Arizona
2000年6月に、ランドローバーのイベント「Trek」に同行取材した時のショット。場所は、最終ステージのアメリカ・アリゾナ州。
世界20数カ国から国内選抜を経て選ばれた選手がアウトドアとサバイバル、ドライビングのスキルを世界4大陸で競い合うというランドローバーらしい雄大なイベントだった。
赤茶けた岩山の中を行くのは、カヤックやマウンテンバイクをルーフに積んだ先代のディスカバリー 。
朝晩は氷点下に、日中は30℃近くなる原野にテントを張って同行取材するのも楽ではなかった。
初日の晩は夜中に雪が降ってきて、テントが半分埋まったほどだ。
食事も、三食とも登山用のフリーズドライフードが支給されるだけだったが、人間の造ったものがほとんど眼に入らない景色の中で一週間ほど生活するのはとてもいいリフレッシュ作用を身心に授けてくれた。
日本代表吉本選手の奮闘ぶりも記憶に残っている。
Pebble Beach
アメリカ・ペブルビーチコンクールデレガンスでのショット。
赤いクルマは、インフィニティG37コンバーチブル。
長年、カーメル郊外の名門ゴルフコースで毎年夏に行われているヒストリックカーの品評会ですが、近年ではその人気にあやかろうと世界中の自動車メーカーがさまざまな形で協賛している。
品評会の表彰の合間には、チャリティくじの当選者が発表され、アメリカ日産提供によるG37コンバーチブルを当てた画面右端の女性が両手を挙げて飛び上がって喜んだ瞬間だ。
左側の紺ジャケットに白パンツの男性は、プレゼンターである日産自動車常務執行役員チーフクリエイティブオフィサーの中村史郎氏の後ろ姿。
中村氏の前に立っているのは、司会の俳優ジェイ・レノ。
レノはクルマ好きとして有名だ。
Andes
アルゼンチン中部の街カファジェテを出て、アンデス山脈に入って行ったところの小川のほとりで撮ったショット。
2007年9月にランドローバーのメディアイベント「Road to the clouds 」に参加した時のもの。
「南北アメリカ大陸で、クルマで越えられる最も標高の高い峠」である標高約5000メートルのPaso Abra el Acayを同社の
ディスカバリー3で越えてみようというのが旅の目的だった。
こんな感じの山道をずっと走り続け、この日の夜は山の中でキャンプし、その翌日にもっと高度を上げて行った。
この時の紀行は、『Road to the Clouds 5000メートルの峠を越える』のページに掲載しています。
Devil's Marble
オーストラリア中部の“デビルス・マーブル”に並ぶ奇岩の数々。
2007年9月に参加した「アウディ トランスコンチネンタル クロッシング2007」というイベントで、シドニーから北西方向に進み、北部のエマゴージまでオーストラリアを縦断した。
画像に写っているのはQ7だが、A6オールロードクワトロの走りっぷりの良さにも感服させられた。
“デビルズ・マーブル”は、アリススプリングスからスチュワートハイウェイを北へ403km進んだ荒野に突如として出現する、天然の奇岩群だ。
悪魔のビー玉(marble)という通り、巨大な宇宙人が岩を転がして遊んだとしか思えない。
岩の角を丸める河川など、周囲にそれを思わせるようなものは何もなく、非常に不思議な場所だった。
Kazakhstan
2006年10月から11月に掛けて行われたメルセデス・ベンツのイベント「Eクラスエクスペリエンス パリ北京」に参加して
EクラスCDI(ディーゼル)でロシアのエカテリンブルグから北京まで走った時、ロシアと中国の途中にあるカザフスタンを通過した時のショット。
ご覧の通り、地平線の果てまで一直線の道が続いています。
詳しくは、本サイト内の「COLUM」に書きましたが、カザフスタンの広大な荒野と対照的に素朴で人懐こい人々に魅了されました。
詳しい紀行は、このサイトの『パリ北京2006』ページで掲載しています。
Kazakhstan
2006年10月から11月に掛けて参加した『メルセデス・ベンツEクラスエクスペリエンス パリ北京』でのショット。
カザフスタン中央部のバス停の前で日本チームのE320CDIとともに撮った。
地平線の端から端まで続く一本道を延々と走るという行為は決して退屈ではなく、大地と一体化するようだった。
この写真を眺めていると、純朴で人懐こい彼の地の人々にもう一度会いたくなってくる。
詳しい紀行は、このサイトの『パリ北京2006』ページで掲載しています。
Shiretoko 知床
2009年8月29日から9月4日に掛けて参加したシーカヤックツアー「知床エクスペディション」でのショット。
日本のシーカヤックの第一人者である新谷暁生氏が主宰。
半島西側のウトロから漕ぎ出し、知床岬を回り、知床半島を海岸沿いにほぼ一周し、相泊で上陸するという5泊6日間のツアー。
数十年前に使われなくなった漁師の番屋の廃屋をところどころに認められるぐらいで、漕ぎ始めてすぐに人間と文明は姿を消す。
視界に入る限り、人間が作ったものが何も存在していない。
真夏のオホーツク海と知床の原生林、遠く微かに姿を現している国後島。
多くの鹿や熊。大自然に圧倒された。
Uygur
2006年に行われたメルセデス・ベンツのイベント「Eクラスエクスペリエンス パリ北京」に参加した時のショット。
カザフスタンからの国境を越えてウルムチへ向かう新疆ウイグル自治区内の荒野を走っているところをヘリコプターに撮影されている。
そのシーンをこちらのEクラスから撮影した。
中国は広大だが、ここは広大な上に周囲360度に人間の気配がまったく感じられないところだった。
詳しい紀行は、このサイトの『パリ北京2006』ページで掲載しています。
Uygur
Yekaterinburg
2006年11月のロシア・エカテリンブルク中心地でのショット。
メルセデス・ベンツが主催したメディアイベント「パリ北京2006」の第3ステージの出発地点で日本チームのE320CDIをバックに撮った。
同イベントは、メルセデス・ベンツがEクラスのディーゼルモデルの性能と耐久性を証明し、同時に北京の合弁工場でのEクラス生産開始を祝うために行われた。
世界各国からのメディアが33台のE320CDIと3台のE320CDI BlueTECで5つに分けられたステージをパリから北京まで走るという壮大なものだった。
僕は、第3から第5までの3つのステージに参加して、このエカテリンブルクから北京までの約7000kmを走った。
詳しい紀行は、このサイトの『パリ北京2006』ページで掲載しています。
Uygur
Paris
パリのバンドーム広場では、オベリスクを取り囲むように高級品店や一流ホテルが建ち並んでいる。
そのうちのどこかから戻ってくるはずの主人を待っているメルセデスベンツSクラスとそのショーファー。
およそ原色というものを許さない、どこまでもグレーとベージュが支配するパリの街並み。
それもバンドーム広場のような他所行きなところにあって、彼はあまりにも鮮やかだった。
カジュアル極まりない真っ赤なセーターとフォーマルな黒いメルセデスSクラスという対比。
そのメルセデスのトランク部分に寄り掛かりながら、退屈そうに眼差しを虚空に漂わせている。
別にしもべのようにかしずかなくたって構わないのさ。
そんな彼の、というかパリの声が聞こえてくるようだった。
Uygur
Estoril Circuit / Portugal
2009年10月にポルトガル・リスボン近郊のエストリルサーキットのピットボックス2階からポルシェ935を撮ったショット。
サーキットでは新しく登場したポルシェ・ターボのメディア試乗会が行われていて、それに参加した時のもの。
この時に限らず、ポルシェは市販車の新型が登場すると、メディアにサーキットで好きなだけ走らせてくれることがよくある。サーキット走行は一般道よりも遥かに過大な負担がクルマに掛かるから他のメーカーはあまり行いたがらず、行っても2,3周だけだったり、助手席に止まったりするものだが、ポルシェは違う。自信がなければできないことだ。
935は1970年代から80年代に掛けて世界中のレースを席巻したレーシングカーで、ポルシェの名声を一層高めるのに貢献した一台。新型ターボもその系譜に連なるものとして展示されていた。マルティニストライプが美しい。
Uygur
Paris
パリのロダン美術館の入り口前に停められていたのは、ジャガーXJ13。ちょうど2年前の今頃、パリ自動車ショー開幕の前日にジャガーが同美術館で行ったメディア向けイベントのために、自社のヘリテイジセンターのあるイギリスから運ばれてきたものだ。
XJ13はル・マン24時間レース優勝を目指して開発され、1966年に完成した。テスト中にクラッシュしてしまい、レースには一度も参戦していない。ジャガー社初のミッドシップエンジンレイアウトを採用しており、5リッターV型12気筒が搭載されていた。ヒロイックなイメージを持つXJ13はファンから慕われていて、現存していたパーツを組み立てたられた一台が世界中のヒストリックカーイベントに参加している。
XJ13がロダン美術館に現れたのは、イベントのメインイベントとして発表された「C-X75」というコンセプトカーの露払い役を務めたようなものだった。
Uygur
Venezia
2005年3月31日のイタリア・ベネチアでのショット。デビューしたばかりのベントレー・コンチネンタル フライングスパーのメディア向け国際試乗会がここで開かれた。
ベネチアは運河の間に築かれた町なので、クルマはおろかオートバイすら走っていないところだが、あえて展示したところにベントレーの自信がうかがえた。ホテル・グリッティパレスの前の運河に特設ステージを浮かべ、その上にコンチネンタル フライングスパーを乗せた。向かいは、サンタマリア・デッラ・サルーテ聖堂だ。
コンチネンタル フライングスパーはW型12気筒エンジンを搭載するコンチネンタルシリーズに追加された初の4ドアセダンで、V8エンジンを積むそれまでのベントレー各車とは系統を別にする。新しいシリーズの新しいセダンだからがゆえに、あえて歴史と伝統が自由と進取の気風と交錯する水の都で披露したのだろう。
Uygur
Saariselkä / Finland
突如、前方に現れたトナカイの群れをバスの座席から撮影した。2010年2月12日から13日に掛けてフィンランドで行われた
ポルシェ911のイベント「パナメーラ・スノウ&アイス」に参加し、帰りにサーリセルカのホテルからイヴァロ空港に向かう道中での一瞬のできごとだった。
北極圏ではトナカイはたくさん飼育されている。僕らのディナーのメインディッシュにもステーキとして出てきたほど、ここでは人間にとても近い動物だ。放牧されているものも多いから、このように集団で道路を渡ったり、しばらく道路を歩いたり走ったりする姿も目にすることができる。
クルマを運転中に衝突に注意しなければならないものは土地それぞれで、北海道の知床ではエゾシカが、沖縄本島北部ではヤンバルクイナが看板に描かれているが、ここではトナカイになる。
Uygur
Crewe / England
2009年11月26日に、戦前のベントレーのレーシングマシン“ブロワー”に乗せてもらった時のショット。
イギリス中部クルーのベントレー本社に招かれ、翌2010年から本格的に生産が開始されるミュルザンヌの生産工程を取材し、エクステリアとインテリアのデザイナーへのインタビューを行った翌日にクルーとその郊外を2時間ほど走った。
1930年代に、ル・マン24時間をはじめとするレースを連覇したブロワーは巨体で、よじ登るようにして乗り込まなければならなかった。
ホイールベースが長く、タイヤの径が大きいので乗り心地自体は悪くはないのだが、つねに強い風と向き合っていなければならない。だから、戦闘機パイロットのような革の帽子を被り、ゴーグルを付けている。4輪の大型オートバイに乗っているような感じだった。
Uygur
Scotland
2010年5月に、デビューしたばかりのベントレー・ミュルザンヌでイギリスの北海沿岸とスコットランドを走った時のショット。
ミュルザンヌは走りっぷりも完璧だったが、インテリアの超絶的な仕上げと工作精度に圧倒された。
色違いのミュルザンヌが何台も揃った姿は圧巻だった。
行く先々の古城や砦などの前に並ぶとイギリスの超高級車の威厳というものが幻ではなく、依然として健在であることをことさら強く示していた。
Uygur
Scotland
2010年5月にベントレー・ミュルザンヌのメディア試乗会でスコットランドを走った時のショット。
エジンバラの東のノースベリックにあるホテルからミュルザンヌに乗り、北海沿いを南下。ベリック・アポン・ツィードの町を過ぎ、海に面した丘の上に建つバンブル城で撮影したもの。
中世の石造りの城(というか要塞)の内部は博物館になっていて、昔の鎧や甲冑、武具などがたくさん展示されていた。
ノースアンバーランド地方に入ってから内陸に戻り、チェビオット丘陵地帯を北上し、カシミアの一大生産地ホウィックをかすめて再びノースベリックに戻った。ツィードといい、カシミアのホウィックといい、真冬に身に付ける服地の名産地をふたつも半日で巡ってしまった。
ミュルザンヌは、フルモデルチェンジされたベントレーのフラグシップで、重厚ながら鋭く加速し、ボディの大きさを感じさせなかった。ボディやパワートレインなどにも超一級の仕上げが施されているが、一番はインテリアだと思う。革と木と金属による精密加工工芸品に囲まれている。
これはもう、クルマであってクルマではないような代物だ。
Uygur
London
ロンドンの地下鉄セントラル線に乗って、ノッティングヒル駅で降り、北へ向かって歩いていた時に遭遇した光景。
白いファサードの屋敷と樹々の緑を背景にして路上駐車されていたアストンマーチンDB9をスナップしようとしたら、小さな女の子と手をつないだ、二人目が生まれそうなお母さんが通り掛かりました。
持ち主ではありませんでしたが、ノンビリと歩いていく様子が印象的でした。
歩道が広いのに歩行者がほとんどいなくて、歩行を邪魔する看板やガードレールなどもない。静謐な環境の中の母娘と獰猛なDB9の対比。この通りとほぼ並行する2本東寄りの道が、
有名なポートベロー・ロード。
以前はアンティークマーケットや古着屋、古道具屋ばかりでしたが、最近は売り出し中のデザイナーのブティックや雑貨店、インテリアショップ、カフェやレストランなどが軒を並べる賑やかなところです。
Uygur
London
ジャケットだけでは肌寒く感じるようになったロンドンのチェルシーを歩いていて角を曲がったら、トライアンフGT6が停まっていた。
40年近く前のもののはずだ。
くすんだボディカラーといい、クロームメッキパーツに浮かんだサビといい、路上やボンネットの上に落ちている枯れ葉のようだった。
タイヤは現代の新しいものを履いていたから、きっと元気に走っているのだろう。
Uygur
London
ロンドンのマーブルアーチ駅前の喧騒を避けてピカデリーサーカスに向かうのに脇道と抜け道を探りながらメイフェアを歩いていたら、 100メートル以上向こうにシルバーのディーノ246GTが停まっていた。
アストンマーチン・ヴァンティッジ、ベントレー・ミュルザンヌ、フェラーリ599などの現代の高級車が道の両側に停まっている界隈にあっても、246GTはオーラを放っていた。
その周囲だけ別の空気に包まれていた。
タクシーを2台やり過ごして反対方向に渡り、近付いていった。小振りで引き締まっているんだけど、抑揚があって艶っぽい。ボディの程度だって極上。ジャガーXKを先に停めた初老の紳士も後ろ髪を引かれるようにしている。
これだからロンドンを歩くのは楽しい。
Uygur
London
ロンドンの地下鉄マーブルアーチ駅をはさんでハイドパークと反対側にある、メリルボーンと呼ばれる地域にあるホテルの部屋の窓から外を眺めていた時に撮ったショット。
メインの車道からホテルやそれに連なる住宅や建物へのアクセス路があるので、眺めていると様々なクルマが停まっては去ていく。一番多いのはもちろん、ロンドンタクシー。製造された年代によってカタチは同じではないが、それでも特徴的なプロポーションだから上から眺めていてもすぐに見分けが付く。
次にやって来たのが、このアストンマーチンDB9。
アストンマーチンは日本だと数が少ないから、つい非現実的なスーパーカーのように特別視してしまうけれども、ロンドンではもっと普遍的だ。かなり高級だけれども、浮世離れして見えない。
町並みや他のクルマたちにフィットしているということもあるのだろう。ロンドンで見るアストンマーチンは自然でいて、そしてもちろんカッコいい。
Uygur
London
外国の街を歩いていると思わぬところで珍しいクルマに遭遇するからカメラは欠かせない。
ロンドンで自由になる時間があったのでポートベローマーケットとその周辺のアンティークショップをひやかした後、地下鉄で3駅分を歩いてホテルまで戻ってきた時のことだ。
渋滞気味の道路を行くロンドンバスの後ろをダークグリーンの
ジャガーEタイプが付いて走ってきた。渋滞気味だから、なかなか前に進まない。ドライバーにサムアップしてカメラを構えるポーズを示し 、斜め前から横から後ろからと何カットも撮らさせてもらった。
撮られ慣れているようで、こちらが撮っている間はバスにあまり近付かないようにして待ってくれていた。
撮り終わっても渋滞は解消されておらず、歩くこちらの方が先に進んだり、また追い付いてきたりして、ハイドパーク沿いをともに東に進んでいった。
カメラを構えなくなると、ドライバーはバスとの車間距離を
適正なところまで縮めていた。
Uygur
Nürnberg
黄緑色のクルマは、メルセデス・ベンツの実験車「BクラスF-CELL」。Bクラスをベースに、燃料電池を動力源としている。
ブルーのオーバーオールを着たオジさんが操るハシケに乗って、川を渡っている最中のショット。2011年5月31日のことだ。場所は、ベルリンからニュルンベルグに向かう途中の林の中の川。
2011年に、3台のBクラスF-CELLはドイツ・シュツットガルトから世界一周の旅に出た。世界各国からの参加者が交代でハンドルを握り、日本人ジャーナリスト3名はハンブルグからドイツを縦断するセクションに参加。水素を燃料とする燃料電池で動くが、運転感覚はどこにも変わったところはなかった。2リッターガソリンエンジンと同等の性能を有し、静かで重厚な乗り心地が印象的だった。航続距離は約400km。
ハンブルクからベルリン、ニュルンベルクを経て、シュツットガルトのダイムラー・ベンツ博物館でゴールした。ディーター・ツェッチェ同社会長、トーマス・ウェーバー技術担当取締役などの首脳陣をはじめとする多くの人々が出迎えてくれた。
Uygur
Schwarzwald
2009年10月にドイツの“黒い森”地帯をポルシェ・パナメーラで走った時のショット。
パナメーラに搭載されるBOSEサウンドシステムが一新されたのを取材。
持参のiPodクラシックに録り貯めてある様々な音楽を再生しながら深い森の中を駆け抜けるのは至福だった。
ただ、惜しいのは運転中に音楽をより楽しめるBOSE独自の技術が日本とヨーロッパの規格の違いによって、日本仕様ではすべて活かし切れていないことだ。
最近のクルマはカーオーディオやカーナビなどの電子回路がクルマの電子回路に統合されてきているので、その傾向はBOSEやポルシェだけに課せられでいるのではなく、日本のガラパゴス化の弊害がここにも出ている。
Uygur
Nürnberg
メルセデス・ベンツの燃料電池車でドイツ北部のハンブルグからダイムラーベンツの本拠地シュツットガルトまでドイツを縦断した時のショット。
燃料電池車は普通の電気自動車と違って航続距離が長く、運転感覚もよりナチュラルだ。
画像は、ニュルンベルグ郊外の川でクルマを渡らせるハシケを待っているところ。
ドイツの川はなだらかだ。
Uygur
Garmisch-Partenkirchen
フォルクスワーゲンのミニバン「シャラン」と「ゴルフ・トゥーラン」のメディア試乗会に参加した2010年7月のショット。
場所は、南ドイツのガルミッシュ・パルテンキルヘン。
ドイツを代表するスキーリゾートのひとつで、ワールドカップ開催などはほぼ毎回のことで、世界選手権や冬季オリンピックなども幾度なく開催されているクラシックコースだ。
ゴルフ・トゥーランの陰になって見えないが、ここはジャンプ競技のスタート地点。はるか先に見えるのが着地地点のスタンドとコントロールルーム。
こうして仕事で近くを通ったことは今まで何度かあったが、山腹にクルマを停めてから山々を眺められたのは初めてのことで、少しの感慨に浸ることができた。
Uygur
Stuttgart
2009年1月に新設されたシュツットガルトのポルシェ博物館を直後に取材した時のショット。
最上階から階下のレーシングマシンや911、奥の917群もチラリと覗けている。
赤いクルマは、1959年ポルシェ製のトラクター。
1.6リッター2気筒ディーゼルエンジンを搭載する。
設計したフェリー・ポルシェは、多機能を簡単に操作できることを狙いとした。たしかに、シングルシーターだ。
1956年から63年までの間に12万台が製造販売された。
トラクターの奥に並べられているのは、356カブリオレのパトカー。その先は、914に911用フラット6を載せた914/6。
ただ陳列するだけでなく、様々な角度からクルマを眺められるように建築的な工夫が施された博物館が増えてきている。
ここはその好例だ。
Uygur
Stuttgart
ドイツ・シュツットガルトのポルシェ博物館内には、おびただしい数のカップやトロフィーなどが展示されている一角がある。
もちろん、すべてポルシェがラリーやレースなどのモータースポーツで勝利を収めて獲得したものだ。
ポルシェ社は高性能なスポーツカーやGTを製造販売する一方で、最近で言えばGT3やカップカーのようなモータースポーツ専用車両も販売している。
モータースポーツは彼らにとってつねに回転しているクルマの両輪のようなもので、それは設立から変わらないのだ。