Transsyberia2007 

目次

2007年8月 

ロシア・モスクワ~モンゴル・ウランバートル 

 

ラリーに誘われる

写真家の小川義文さんが、折り入って話があるという。
「8月に、“トランスシベリア2007”ってラリーに出るんだけど、カネコさん、興味ありますか?」

小川さんは優しい調子で本題を口にしたが、眼は真剣だ。
聞けば、モスクワの赤の広場をスタートして、14日後のゴールはモンゴルのウランバートルだという。
走行距離7000km。クルマは、『ポルシェ・カイエンS・トランスシベリア』。

小川さんはパリ・ダカール・ラリーにドライバーとして7回、監督として2回出場したことのある、ラリーのプロでもあるのだが、こちらは競技経験ゼロ。
コ・ドライバーなんてとても務まらない。
「競技経験は不要。必要なのは、カネコさんがロシアを走ってユーラシア大陸を横断した経験。
ロシアの道路や土地がどんな状況で、どんな風土なのか。
それは走った人しかわからない。
こういう超長距離ラリーになると、いちばんモノを言うのは経験なのです」

さすが、パリ・ダカのベテランだ。
ロシアの道が日本や欧米諸国のそれとはずいぶんと違うだろうとハナを効かせている。
アヤしそうだとニラむ通り、ロシアの道は過酷だ。
立派な舗装路に突然大きな穴が出現したり、角の尖った石ころが連続するダートが100km以上続いたりする。
「気候やガソリンスタンド、ホテル、食事なんかはどうなっているんですか? 
ラリーに勝つためには、そういったことをひとつずつ把握していく必要があるんですよ」

小川さんはアツく問い質してくる。
撮影では柔らかくクールなのに、このアツさはどこから来るのか。
モンゴルのゴビ砂漠が呼んでいるのか。
「FIA競技ライセンスを返還して、ラリーから引退したつもりだった。
でも、精神的も肉体的にも、このまま老け込むのも悔しい。
だから、もう1回やってみることにしたんだ」

経験が活かせるならばと、僕はその場で参加を決めた。
1度ならず、2度もロシアを走ったモノ好きなんてヨーロッパにもあまりいないだろうから、少しは期待に応えることができるかもしれない。
でも、4本のダンパーが抜け、軽い鞭打ち症になった極悪路を思い出すと、ちょっと頭が痛くなってくる。

そして、自分にとってラリーは、新しいチャレンジになる。
ドライバーを助け、進むべきルートをつねに把握し、ラリーカーを正しく導かなければならない。
ラリーをやったことはないけれど、似たようなことは世界中で経験してきたから不安はない。
でも、新しいことを始めるというのは、いつも気持ちが昂ってくる。 

◆本コラムは「NAVI」誌2007年9月号
「トランスシベリア2007参戦記 
中年も荒野を目指す」に加筆と修正を
加えたものです

 

●ライプチヒでのトレーニング

円錐形を逆さにした超モダンな建物は、ポルシェのビジターセンターだ。
向かって右側の平屋の巨大な建物が、カイエンの工場。
911シリーズは本拠地のシュツットガルトで生産されているが、2002年からカイエンを作り始めるにあたって、ポルシェは旧東ドイツ圏のライプチヒに工場を新設した。

ビジターセンターの内部も外側に負けないほどモダンだ。
逆円錐の中心部分に大きなエレベーターが貫通し、3階で降ろされる。
ロビーや踊り場のようなものは存在せず、椅子の並べられたホールに直接入る。

ここに集められた52名が、「トランスシベリア・ラリー」の参加者たちだ。
今日から4日間、ここでポルシェによるトレーニングが行われる。
ラリーの主催者はMAIというドイツのラリークラブだが、市販のカイエンSを改造した「カイエン・トランスシベリア」26台を参加チームに引き渡すと同時に、トレーニングを催した。

「ここで会うとは思わなかった」
小川義文さんが素早く見付けたのはルネ・メッジだった。
「僕は、1984年のパリ・ダカールで、メッジが運転する959に砂漠でブチ抜かれたんだ」

メッジは、1984年と86年のパリダカール・ラリーをポルシェ959(84年は、「953」 というプロトタイプ名でエントリーされた)で二度の総合優勝を果たしている。

また、昨年のダイムラー・クライスラーのイベント「Eクラスエクスペリエンス パリ~北京2006」のコースディレクターを務めていた。
メッジはティエリー・サビーヌ亡きあとのパリダカール・ラリーの主催を引き継ぎ、運営に多大の貢献を果たした。

そして、日本の三菱商事が主催した1991年(直前にキャンセル)、92年、95年のパリ北京ラリーのコースディレクターも務めている。
ラリーレイドと呼ばれる、パリ・ダカールやトランスシベリアのような超長距離ラリーについて最も経験が深く、優れた手腕を有している人物だろう。

さすがにメッジは有名人だから、参加者やポルシェ、トランスシベリアの主催者などから次々と握手を求められている。
しかし、いまここに集まっている他の49名はどんな人物なのだろうか。
「横に、ヒゲの太ったオジさんがいるでしょ。サイード・アルハジャリ。彼も959で85年のファラオ・ラリーに優勝している」

アルハジャリは一回見たら決して忘れない“濃いぃ”顔付きをしている。
失礼ながら、ラリーカーを速く運転する姿が想像できない。
「いや、すごく速いんだ。そのファラオ・ラリーには僕も出ていたけど、驚かされたよ」

パリ・ダカやロンドン・シドニー・マラソンなどに出場した小川さんには、因縁のある参加者が少なくない。

胸の名札を見る限りでも、WRCドライバーのアーミン・シュワルツ、アメリカのパイクスピークスで有名なロッド・ミレンなど、ラリーに疎い僕でも知っている面々が集まってきている。
こんなスゴそうな連中と、果たしてモスクワからウランバートルまでの6500kmを14日間にもわたって競り合うなんてことができるのだろうか。
ちょっと不安になってきた。

しかし、プロやエキスパートばかりが参加者ではない。
各国のポルシェインポーターの社長やポルシェクラブの会長などもいる。
スペインチームのコ・ドライバーは、モータースポーツの経験はない代わりに、世界に14ある8000メートル級の山の8つに登頂したふたり目の女性登山家で、GPSを用いたナビゲーションの専門家だ。

トレーニングの期間中、食事時などにお互いを自己紹介できた人たちとは知り合えることができた。

●特別に製作されたカイエンSトランスシベリア

トレーニングは、大きく3種類の内容に分けられた。
クルマの引き渡しとエントリー、クルマと装備の説明、クルマの慣熟走行とシミュレーション走行だ。

カイエン・トランスシベリアは2シーター化され、ロールバーが張り巡らされたラリーカーだが、ドイツのナンバープレートが付いた普通乗用車でもある。
何枚もの書類に必要事項を記入し、登録する。
同時に、トランスシベリア・ラリーの主催者に提出するエントリー用紙にも記入、提出。

ペーパーワークが終わると、ビジターセンター2階部分の外回廊で僕らのカイエン・トランスシベリアを受け取った。
黒地にオレンジのアクセントも凛々しい「STS2613」である。

さっそく飛び乗って、走ってみたいところだが、まだプログラムが山積みされている。
再び、ホールに戻って、クルマの改造箇所と装備品について、ユルゲン・ケルンからレクチュアを受ける。
ケルンの本職は工場でのカイエンの生産管理だが、昨年のトランスシベリア・ラリーにカイエンSで出場し、見事、総合優勝を飾っている。

「カイエン・トランスシベリアはヴァイザッハで開発された耐久ラリー専用車だ。
特別なメインテナンスを必要とせずに、ラリーを走り切ることができるだろう。
ただ、そのためには慎重にコースを選び、丁寧に走ることが必要だ。
シリアスなアクシデントには我々が手を貸すこともできるが、自分たちでできることは自分たちで行って欲しい。そのための工具と道具が積んである」

アルミのツールボックス2個には、工具だけでなく、折り畳み式のノコギリや斧、コップや皿までが詰め込まれている。
ラリーの後半、モンゴルでの一週間は毎晩キャンプだから、テントも2張り積んである。

トレーニング2日目に、カイエン・トランスシベリアで走ることができた。
内張りと遮音材をすべてはがしてあるので、 エンジン音、タイヤの擦過音がうるさい。

ポルシェの敷地に隣り合う、旧東ドイツ陸軍訓練場でオフロード走行を行った。
ポルシェのインストラクターの指示に従って、凹凸路、急傾斜路、沼地などを走る。
彼らが参加者に認識させたかったのは、カイエンが備える4輪駆動システム「PTMS」に慣れることだろう。
PTMSは、電子制御された最新の4輪駆動システムだから、ドライバーに熟練したテクニックがなくてもほとんどの悪路を走破してしまうことはできる。
だが、副変速機やデフロックを、どんな状況で働かさせるかの判断までは、経験していなければ選択できない。それを体験させておきたかったのだろう。

同じように、舗装のテストコースも、存分に走らされた。
2代目カイエンの目玉装備である、ロールを電子制御する「PDCC」のオンオフをでの挙動の違いを確認しておくようインストラクターから命じられた。

そして、最終日には敷地外に出て、ラリーのシミュレートが行われた。
本番のラリーと同じようなルートブックが与えられ、ガーミンのGPSと併用してチェックポイントを回りながら、往復約200kmのコースを走る。

プロやエキスパートだから当然のことだが、オフロードに入ってからの飛ばし方が普通じゃない。
2トン近いカイエン・トランスシベリアがポンポンと飛び跳ねてしまうような凹凸の激しいところで、狂ったようにスパートしてきたポーランドチームに追い越された。

「ああいうのが、クルマを壊して、一番最初にリタイアするんだよ」
かつてパリ・ダカで、必要以上に飛ばした結果、メカトラブルを誘発してリタイアせざるを得なかった自身の経験を語りながら、小川さんは冷静さを保った。 
案の定、深い森の奥で道を誤り、スタックさせたのが1台、険しい岩でタイヤをバーストさせたチームが1台あった。
「慣れているはずのドイツ郊外の200kmでスタックとバーストが1台ずつ。事情のわからないロシアとモンゴルだったら、もっと悲惨なことになるよ」

ライプチヒでは、PTMSやPDCCの効き具合よりも、もっと重要なことをトレーニングすることができた。
冷静に状況を見極め、素早く総合的に判断すれば、道は開けるのだ、と。不安が少し解消された気がする。

 

●準備不足の不安

ライプチヒでの合同トレーニングを終えた翌週、小川義文さんと僕は、いつものようにウエスト青山店で作戦会議を開いていた。

「やっぱり、クルマを“自分たちのもの”にできないまま帰ってきたのが気になるなぁ」
僕らは、自分たちで簡単なラリーカーの整備を行うようなことができないまま、モスクワでの8月2日のスタートを迎えることを大いに心配していた。

ライプチヒでは、オンロードでもオフロードでも、ラリーカーである「カイエンSトランスシベリア」を運転することはできた。
でも、ホイール交換やエアクリーナー清掃など、ラリー中に間違いなく行うことになるであろう最低限のことすら予行演習することはできなかった。

専用のアルミボックス2個を開け、一杯に詰め込まれた工具類を見て、写真を撮ることはできたが、それらを駆使して、何か作業を行ったわけではない。
この違いは大きい。

「アクシデントに遭わなかったとしても、必ずやらなければならない作業は発生しますからねぇ」

シュノーケル式のエアインテークは、河川や深い水たまりなどだけでなく、モンゴルの砂漠を走る時にエンジンに砂を吸い込ませないために、ボンネットとAピラーに組み付けなければならない。

タイヤを交換するにしても、太いタイダウンロープで固定されているスペアタイヤを外し、これもフロア下に固定されているジャッキを外して、決して軽くはないカイエンSトランスシベリアを持ち上げる必要がある。

ジャッキはフロア下のどこに固定されているのか?

ジャッキアップポイントはどこか?

真っ平らなアスファルトでタイヤ交換ができるとは限らない。
砂漠じゃジャッキは埋まってしまう。

ラリー中、それもスペシャルステージ中に何かが起こったら、1秒でも短く作業を終えなければならないのだから、クルマと工具に習熟していなければならない。
それには、工具を手に取って、実際にシミュレートしてみるしかない。

「イタリアチームみたいに、本当はライプチヒから日本まで乗って帰って来たかったくらい。そうすれば、ボディや足回りの補強も追加して行うことができる。
日本地図のチップを入れ替えてガーミンのGPSにも慣れることができるだろうし、充電用インバーターやヘルメットのインカム用アンプの取り付けも確実に行える」

ドライバーとしてパリ・ダカールラリーに7回出場しただけあって、小川さんの指摘はすべて実戦的だ。
たしかに、工具や道具は何度か使ってみなければわからないし、競技中のアクシデントは焦りを誘発するだろう。
ライプチヒの合同トレーニングでは、アクシデントへの対処方法をほとんどシミュレートできなかった。

しかし、現実的にはカイエンSトランスシベリアはライプチヒのカイエン・ファクトリーからシュツットガルトのポルシェ本社に移され保管されているわけだから、東京で思案していも何も始まらない。
「カネコさんの次の出張の予定はいつ?」

●シュツットガルトでチェック&テスト

幸い、僕らはほぼ同時期にヨーロッパに取材に行くことになっていた。
予定を少し変更して時間を作り、シュツットガルトへ向かうことができるのである。

そこから各方面と算段して、シュツットガルト・ルドヴィッヒスベルグのポルシェのファクトリーに赴くことになった。
研究開発のヴァイザッハ、911とボクスターを生産しているツッフェンハウゼンから少し離れたルドヴィッヒスベルグには営業などの事務部門が集まっている。

倉庫には、ほぼ3週間前にライプチヒで別れた、チーム・ポルシェジャパンの「STS2613」が待っていた。
トレーニングで泥にまみれたままだった黒地にオレンジのボディもキレイになっている。

クルマを持ち上げてフロア下やサスペンション点検できるリフトや大型工具なども揃っている。

さっそく、2シーター化されたカイエンSトランスシベリアのリアシートに積まれているものをすべて降ろしてみる。
工具箱ふたつ、スペアタイヤ2本、ウインチ、シュノーケル、テント2張り、キャンプ用品等々。

20インチの大径タイヤとフロアに固定されたウインチが、ラゲッジスペースの半分以上を占めている。
ラリーを戦うと同時に取材活動をしなければならない僕らの仕事道具であるカメラやパソコンなどを、どこにどう、振動と砂をプロテクトして収めるかも重要な検討材料のひとつである。
「砂漠じゃ、エアクリーナーはすぐに詰まっちゃうから、交換しないとね」

ロシアを横断した時にも、僕のトヨタ・カルディナのエアクリーナーはホコリと虫の死骸で一杯になっていたことを思い出した。

どんなクルマのエアクリーナーも、だいたい弁当箱のようなクリーナーボックスのフタを開けるとフィルターが入っていて、それを取り出し、弁当箱をクルマから外して引っくり返せば、掃除は完了することになっている。
 
ところが、カイエンSトランスシベリアのエアクリーナーは、まず第一にエアクリーナーボックスの上にインテークマニホールドが被さっていて、簡単には外せない。
工具ボックスからレンチやスクリュードライバーを取り出してきてそっちに取りかかる。面倒臭せぇなァと思いつつも、“ああ、こういうことをするために、わざわざここに来たんだよナ”と、自分の行動に確信が持てた。

インテークマニホールドを外してズラし、クリーナーボックスのフタを取ることはできたが、フィルターを外せない。
ボックスから2本のパイプとコードが生えていて、フィルターまで指が届かない。
クリーナーボックスも狭い空間に押し込められているから、空間の自由度が非常に狭い。
「これは、トランスシベリア・ラリー用のスペシャルだから、難しいんだ」

僕らのチェックにつき合ってくれた、ポルシェのウォルフガング・フォン・デューレン氏も、フィルターを交換するのは諦め顔だ。
「フィルターを交換する必要はない。君らが心配しているエンジンオイル交換も必要ない。
サスペンションの増し締め!? 全然必要ないよ」

ふだんはカイエンの品質管理に携わり、昨年のトランスシベリア・ラリーに旧型カイエンで総合優勝を果たしているユルゲン・ケルン氏は、僕らの心配を一掃するかのように答えた。

「ポルシェは、カイエンSトランスシベリアに絶対の自信を持っている。6500キロぐらいのラリーは、ストックのまま走り切ることができる。その点については心配しないでもらいたい。でも、ラリーだから、然るべきルートの取り方と走り方をしてもらってのことだがね」

優しそうなケルン氏だが、最後のひとことがすべてを表現していた。
カイエンSトランスシベリアは完璧だが、すべてはドライバーとコドライバーに掛かっているのだよ、と。

秘密兵器として東京から持ち込んだエアジャッキをうまく作動させられなかったり、ガーミンのGPSを完璧にマスターできたわけではない。
それでも、時間を作ってルドヴィッヒスベルグまで来た甲斐があった、と僕は思った。
「ユルゲンの言っていることはもっともだけれども、それでいいのかな?」

最新鋭のオフロード4輪駆動車であるカイエンSトランスシベリアのハイテクにドライビングを委ね、マシンのメインテナンスは心配する必要がないというユルゲンの言葉に、小川さんはうなずきつつも、もどかしそうな様子だった。 

“ラリーでは、経験がモノを言う”といつも口にしている自身の“経験”を、ドライビングにもトラブル処置にも生かせないかもしれないからだろう。
それほど、カイエンSトランスシベリアのハイテクは、スゴいのか。
実戦に出てみないとわからない。

カイエンSトランスシベリアという最新鋭のオフロード4輪駆動車と、“パリダカ7回その他出場”の小川さんの経験。
ふたつが有機的に組み合わさることで好結果がもたらされるのだが、今昔の違いがどう顔を出すのか、興味深い。
コドライバーなのに、ちょっと傍観者的に考えたのは僕にラリーの経験がないからだろう。

 

 

●決勝スタート

ラリーのスペシャルステージが、こんなにも激しいものだったとは知らなかった。

ポルシェ・カイエンSトランスシベリアのボディは激しく前後左右、そして上下にバウンドし、ドライバーもコ・ドライバーも車内で揺すられ続ける。
まるで、巨大なカクテルシェイカーの中で作られるドライマティーニに浸っているかのようだ。

ドシッ、ダダダッ、ガツンッ、カァーン、ゴンゴンゴンッ。
タイヤが路面の突起や穴に強く当たり、跳ね上げた小石がフェンダー内側やアンダーフロアにぶつかる音が、すべて車内に侵入してくる。

トランスシベリア用にポルシェのヴァイザッハ研究所で26台製作されたカイエンSは、軽量化のためにボディの内張りや遮音材などがすべて省かれているから、エンジンやトランスミッションからのノイズも、そのまま車内に入り込んでくる。
ギシッ、ギュギュッ、ギシッ。
スタート前に、ロープやネットなどで強固に固定したはずの荷物やスペアタイヤなどが踊り、揺すられて、音を出しているも聞こえてくる。

「2km先で分岐しているこの道を、1時方向へ!」
ヘルメットに取り付けたインターコム・システムのマイクとスピーカーを通じて、ドライバーの小川義文さんに僕らの進むべき方角と曲がるタイミングを伝えなければならない。

だが、激しく揺さぶられるのでルートブックのコマ図がブレてしまって、うまく読み取ることができない。
デジカメに付いている“手ブレ防止機構”を自分の腕に埋め込みたい!
「ハアッ、ハアッ、ハッ」
スピーカーからは、小川さんの吐息が聞こえてくる。
心拍数がかなり上がっているのだろう。

小川さんは、路面の凸凹を右に左に避けながら、なおかつ2km先の分岐点を目指して、カイエンSを全開加速させていく。
目の前の路面の凸凹や岩、水溜まりなどを凝視し、ハンドルを細かく切ってそれらを避けながら、同時に遠くの目標を目掛けてカイエンSのスロットルペダルを踏み込んでいく。
極東シベリアの極悪路を走った時のことを思い出せば、これがとても難しいドライビングだということが僕にもよくわかる。

クルマへのダメージを少なくするため、障害物を避けるのに慎重になりすぎてしまっては速く走ることはできない。
高速道路やサーキットなどの舗装路面を高速で走る時には、“遠くを見るように”と教えられるが、このようなラフロードで遠くだけしか見ないで走っていたら、転覆するか、岩にでもクルマをヒットさせてダメージを喰らうか、タイヤをパンクさせるのが関の山だ。

こういう路面では、“遠くを見据えつつ、近くも凝視して”走らなければならないのだ。
あるいは、“ゆっくり、飛ばせ”ということか。
ものスゴい集中力を必要とすることは、僕も体験している。
深さ20cmの凸凹と岩と石が連続する直線路では、小川さんは時速100km近くまで出していた。

ガァンッ!
少しでもショックを和らげるために、大きな凸凹の最も平らな部分を斜めにカットして走り抜けようとした直後だった。
前輪は狙い通りにスリ抜けられたが、右後輪だけが凹みの淵に取られた。
バウンドした右後輪は瞬間的にカイエンSのボディを突き上げた。
右側の助手席に座っていた僕の身体も同時に跳ね上げられ、天井のロールオーバーバーに思い切り強く頭をブツけた。

ヘルメット越しだから、直接的な痛みこそないものの、ショックは相当に強い。
予期できていなかったから、なおさらだ。
同じ衝撃を何度も受けていたら、間違いなくムチ打ち症になるだろう。

それにしても、この揺すられ方はハンパじゃない。
ゆっくり走ったらタイムを縮められないのはわかっているが、こんなにも激しくなければならないのか。
胃の内容物が逆流してきそうだ。
とんでもないところに来ちゃったなぁ。
でも、後悔したところで、もう遅い。
「1・4km先を右折です。そのすぐ先に川があります」
「1・4km、右折、川。了解!」

●スペシャルステージとリエゾン

さて、ここでトランスシベリア2007の競技内容について説明しておこう。

ロシアのモスクワをスタートして、モンゴルのウランバートルまでの6500kmを走る「トランスシベリア2007」ラリーには、ロシアで3つ、モンゴルでは7つのスペシャルステージが設けられている。

ロシアのスペシャルステージは幹線道路から外れた森や林の中で行われる。
距離も、23km、32km、40kmと短い。
それに対して、モンゴルは長い。最短でも290km、最長だと480kmもある。

スペシャルステージとスペシャルステージをつなぐ区間のことを、リエゾンと呼ぶ。
移動区間のことだ。制限時間内に次のスペシャルステージに到着していなければならないラリーもあるが、今回のトランスシベリア2007ではその制限は設定されていない。
つまり、リエゾン区間ではマシンを無事に次のスペシャルステージまで移動させることが第一目標となる。

おおまかな走行距離は、ロシア内が4000km、モンゴルでは2500km。
ロシアでは、国道や幹線道路などの長いリエゾン区間を移動し、森や林でのスペシャルステージを競い合う。

対して、モンゴルではリエゾン区間が極端に短く、スペシャルステージが長い。
スペシャルステージを走ることが、そのまま移動も兼ねているようなものだ。

「モンゴルには道はない。“方角”があるだけだ」
5月のライプチヒでのトレーニングで、ポルシェのユルゲン・ケルンは語っていた。
ユルゲンは、昨年のトランスシベリア2006に総合優勝している。

ロシアではスペシャルステージの距離が短いからドライビング能力が問われることになるが、距離の長いモンゴルでは併せてナビゲーションにも勝負が掛かってくるというのがユルゲンの見通しだ。

トランスシベリア2007の勝敗は、スペシャルステージでの走行時間とペナルティの多寡とによって決まる。
各ステージに設定されたミニマムタイムに最も近い走行時間でフィニッシュし、ペナルティを課されない者がウイナーだ。

最も大きなペナルティは、設定されたマキシマムタイムを超えたり、ステージ中のどこかに設定されたチェックポイントを通過しなかったりすると、受けることになる。

スペシャルステージごとに順位を発表し、その累積結果でゴールのウランバートルでは総合優勝が決定する。

争うのは、世界中からエントリーしてきたクルマ46台。
26台のカイエンSトランスシベリアを筆頭に、プライベートの1975年型ポルシェ911カレラ、メルセデスベンツML350、G250D、ランドローバー・ディフェンダー、レンジローバー、トヨタ・ランドクルーザー、スズキ・ビターラ、ジープ・グランドチェロキー等々。
珍しいところでは、韓国のサンヨン・テクストンなども出走した。
他に、メルセデスベンツ・ウニモグをはじめとする様々なトラックなどもゼッケンを付けてスタートしたが、賞典外扱いだった。

カイエンSトランスシベリアに乗る参加者には、往年の名ドライバーもいた。
パリ・ダカール・ラリーを2連覇したフランス・チームのルネ・メッジ、アメリカ1号車を運転するロッド・ミレン、UAE(アラブ首長国連邦)チームのサイード・アルハジャリはファラオ・ラリーの覇者、ドイツの3号車に乗るアーミン・シュワルツはつい最近までWRCを戦っていた。

ドバイ・チームのドライバー、カリームは、若いが中近東ポルシェ・クラブの会長を務め、
レーシングスクールのインストラクターとして教えている。
ドイツの2号車はカレラカップのドライバーを乗せ、 イギリス・チームのドライバーはポルシェGBのオフロードドライビング・インストラクターだ。

プロのラリードライバーではないが、モータースポーツの経験豊かな者が多い。
だが、その一方でアマチュアもいる。
それ以外の参加者はといえば、さまざまだ。
メッジのコ・ドライバーは、フランスの『ル・フィガロ』誌の自動車担当編集者だが、モータースポーツ経験は一切ないという。

コロンビアのドライバー、クリスチャンは、彼の地でのポルシェとトヨタのインポーターだというし、シンガポールから来たエディはポルシェクラブ・アジアパシフィックの前会長で、コ・ドライバーのプラディップは新聞記者。

●ライバルに救いの手を

林の中を流れる、幅10メートルほどの川の前でエディたちのゼッケン7番が停まっていた。
川の中で、メルセデスML350が水没し、もがいているのだ。
川の流れはゆるやかだが、ML350は斜めになってウインドウの下縁まで水に浸かっている。
 
エディたちの7番、911カレラ、僕ら15番の順で、川の前の一本道で順番を待つ形になった。
道の両側は草深いブッシュだから、川を渡ってしか前に進むことはできない。
僕らの後ろには、サンヨンや「プロトタイプ・レーシング」の12番が追い付いてきていた。
 
みんなクルマを下りてきて、ML350とエディたちの一挙手一投足を固唾を飲んで見守っている。
 
ML350のドライバーとコ・ドライバーはウインチを使って脱出を試み始めた。
ワイアロープを対岸の樹木に結び付け、自らを引き上げようという作戦だ。
ウインチが唸りを上げ、ワイアロープがピンッと張り、川底の泥に沈んでいた黒と銀のML350を引き上げた。
付近の住民なのか、見物人の間から拍手が起こった。
 
次は、エディの番だ。いつも朗らかに喋ってばかりいる59歳のシンガポーリアンは、相当に緊張しているのか、表情がこわばって、口数が少なくなっている。
「エディ、大丈夫かな?」
 
ドライバーズシートから、フロントガラス越しに様子を見ていた小川さんが心配している。エディは、小川さんのパリダカでの豊富な経験を知ってから、小川さんを頼りにして、何かにつけ、「パリスダカールでは、どうだった?」と話し掛けてくる。
「あっ、もっとゆっくり入っていかないとダメだ」
 
小川さんの心配していた通り、エディは目一杯勢いを付けて、ウオータースライダーのように着水した。
いくら加速したところで、水の抵抗は大きいから、勢いを減じてしまう。
いたずらにエンジン回転を上げてしまうことで、川底を掻いてしまうだけだ。
 
案の定、エディのカイエンSは動きが取れなくなった。
テールパイプから、空しくブクブクと排ガスを出すだけだ。
ギアをリバース入れたが、川底をタイヤで掘って、どんどん沈んでいっている。
 
助手席のプラディップが重たそうにドアを空けて、出てきた。
その瞬間、濁った水が車内にドッと流れ込む。
胸まで水に浸りながら、プラディップはテールゲートを開けて牽引ロープとシャックルを取り出した。
自分たちのカイエンSのフックにシャックルを介してロープを取り付けると、もう一方の端を持って、こちらにやってきた。

「君たちのクルマにこのロープを結び付けて、僕らをリバースで引っ張り上げてくれないか?」

プラディップの眼は真剣だ。
「カネコさん、どうする?」
「やりましょう」

プラディップに、真正面から眼を見られながら頼まれたので、断れなかった。
ノーと言ったって、規則違反でもなんでもないのだが、気持ちの収まりを付ける自信がなかった。
まったくのラリー初心者であるがゆえの甘さなのかもしれないが、せっかく仲良くなった仲間を放っておくわけにはいかない。
少し順位が下がったところで、まだ先は長い。気持ちよく戦いたいじゃないか。
躊躇することはなかった。
 
僕らのカイエンSのフロントのフックに、プラディップが持ってきたシャックルを結び付け、バックで引っ張り上げた。
 
再び、エディたちは川を渡らなければならない。
運転席から降りてきたエディが、こちらの窓から首を突っ込んで来る。

「ローレンジに入れるのには、どうしたらいいんだ?」
エディは知らなかったのか。
ライプチヒのトレーニングで、いったい何をやっていたんだ。
ギアを、ニュートラルにしてレバーを下に1段分落とすだけのことじゃないか。
水没するのも無理はない。
「その上、ゆっくり、ゆっくり行くんだ」
 
小川さんのアドバイスが効いたのか、エディは先ほどとは打って変わって慎重に川に入り、対岸に渡った。
 
次は、僕らの番だが、エディに教えたことが自分たちへの確認になったようで、危な気なく、ゆっくりと渡れた。
 
しかし、無事に川を渡れたエディたちの7番が、対岸の上り坂のマディな路面で
スリップして立ち往生している。
僕はカイエンSから降り、右側のブッシュの中に入ってみた。
切り株や太い木のないところを見定め、小川さんを誘導し、エディたちの前に出た。
今度は、プラディップが訊いてくる。
「デフロックって、どうやるんだっけ?」
「ローレンジから、さらにもう1段レバーを落とすんだよ」
 
エディをどかせてレバーを操作してみると、ローレンジにもデフロックにもならない。
さっきの水没でシート下のコンピューターユニットがやられてしまったのかもしれない。
仕方がない、また、ロープとシャックルを出して、平らなところまで牽引だ。
 
その間、僕らがブッシュに着けたワダチの上を、他のチームのクルマが何台も通り抜けていく。

「こういう時もあるんだよ。次は、僕らがエディたちに助けられるかもしれないからね」
だが、助けられることを期待して、僕らはエディたちに“貸し”を作ったわけではない。
自分たちの成績だけを優先させることよりも大事なものがあることに気付いたからだ。

「今日のスペシャルステージで、カネコさんはラリーの大きな洗礼を受けたね」
スペシャルステージをフィニッシュし、ヘルメットを脱いで、再びリエゾン区間を走り始めた小川さんに言われた。
「ミスコース、深い川渡り、ライバルの救助。アドベンチャーラリーで起きそうなことに、一斉に見舞われたね」
 
大きな広場に、フィニッシュしたラリーカーが集まっていた。
リアバンパーを失ったり、ホイールを割ったり、ダメージを負ったクルマもいる。
幸い、僕らは無傷だ。車内で激しく揺すられたのには、かなり参ったが、エディたちを積極的に助けたことが、自分でも意外だった。
自分のことはわかり切っているつもりだったが、知らない自分に気付かされた。
アドベンチャーラリーの奥深さによるものなのだろうか。

 

●ずっとリエゾン

アドベンチャーラリーは、なかなか予定通りには進行しない。
「トランスシベリア2007」ラリーの3回目のスペシャルステージは、エカテリンブルク郊外の森の中で行われる予定だった。
が、全車が現場に到着し、スタートを前にしたブリーフィングで、突如、オーガナイザーからキャンセルが伝えられた。
「コース設定した時と較べて、状況が過酷なものに変わった。
雨が多く降ったことで、地盤が緩み、マディな路面が増えた。
今朝、試走したところ、とても過酷なものだった」
 
白樺林の中の広場にラリーカーを停め、オーガナイザーの周りに集い、僕らはハンドマイクからの状況説明に耳を傾けた。
「我々は、4500km彼方のウランバートルを目指さなければならない。
ここでスペシャルステージを強行しても、クルマを壊す可能性がとても高い。
それでも走ってみたいという人は、どうぞ」
 
ロシア最後のスペシャルステージがキャンセルされたことで、次のスペシャルステージはモンゴルに入ってからとなった。
モンゴルとの国境を越えるまでの残りの4日間は、すべてリエゾンだ。
リエゾンはスペシャルステージをつなぐ移動区間のことだが、ラリーによってはタイムリミットが設定されている場合がある。
 
だが、トランスシベリア2007では、タイムリミットを設定しないという。
となると、余計に、ロシアでの残りの4日間は退屈な移動だけとなる。
今日の宿泊地チュメンまで263km。以後、オムスクまで616km、ノボシビルスクまで666km、コッシュアガシュまで845km、国境を越えてモンゴル最初のキャンプ地、オルギーまで286km。
「退屈なのは、みんな同じ。一番避けなければいけないのは、意味のないアクシデント。
急ぐ必要はなくなったのだから、クルマを壊したり、怪我したり、体調を壊さないようにしないと」
ドライバーの小川義文さんは、慎重かつ実戦的だ。

エカテリンブルクから先は、僕らはロシアの国道M7を、東へ進んでいく。
この道は、4年前に反対方向から走ってきたことがある。
旧々型のトヨタ・カルディナを富山の伏木港からフェリーに乗せ、ウラジオストクからロシアを横断してユーラシア大陸最西端の地、ポルトガルのロカ岬まで走った時に通った道そのものだ。 
M7は、白樺林が点在する草原を貫く、片側1車線ないし2車線の舗装路。
舗装はされているが、クオリティは低く、ひび割れや穴、凸凹などが当たり前のように続いている。
それでも、バイカル湖畔のイルクーツク市以東の極東シベリア地方に較べれば、
まだマシだ。
 
ラリーの準備段階で、小川さんからロシアのガソリン事情について質された。
「ハイオクでもオクタン価88や86ぐらい。日本や欧米のような93や98などは、見たことがありません。田舎には、ガソリンスタンドが存在しないところも多い。
でも、タンクローリーから直に売っているところがあるので、オクタン価さえ選ばなければ給油できないことはありませんでした」
 
そう答えていたが、M7沿いのスタンド事情が一変しているのに驚かされた。
大型の、日本や欧米スタイルの真新しいガソリンスタンドがたくさん新設されていたのだ。
新しいから、オクタン価93のハイオクタン・ガソリンにも困ることはなかった。
 
ガソリンスタンド事情は改変されていたが、道路や周りの景観には、あまり変わりはなかった。
うれしいことに、4年前に旧々型カルディナで通った時に立ち寄って昼食を摂ったM7沿いの食堂を憶えていて、変わらず営業していた姿を確認できたことだった。

「なぁんだ、言ってくれれば、そこでお昼を食べたのに」
だいぶ過ぎてから食堂のことを口にすると小川さんは惜しがった。
代わりに、同じような食堂に入って、シャシャリクと呼ばれる肉の串焼きを勧めた。
シャシャリクはハーブやスパイスを擦り込んだ牛や羊の肉を串に刺し、炭火で焼き込んだもの。
M7だけでなく、ロシアの街道沿いのいたるところで食べることができる。
新鮮な肉に染み込んだ香辛料のほろ苦く鮮やかな味は、他では得られないものだ。

●タカリ警官のカツアゲ

モンゴルとの国境までの2500kmあまりが、退屈な移動だけで終わったわけではない。
ロシアをクルマで旅する際に絶対に避けては通れない、やっかいな存在となんとか折り合いを付けなければならないのだ。
タカリ警官である。
 
M7沿いで、物陰に隠れて、日本では使われていないハンドマイク型の簡易スピード測定器をクルマに向け、クルマを停めて、尋問を行う。
パスポートとクルマの登録書類を出せと迫り、金を払わないと返さない。
遅いトラックを上り坂で追い越すところで、ホンのわずかはみ出し禁止車線を踏んだという容疑で、金を無心してくる。
容疑もなく、ただ、停められたこともあった。
キチンとした取り締まりではなく、金を払っても調書なり、違反切符を渡すわけではない。

「まったく、カツアゲみたいなもんだね」
小川さんも呆れて、なるべく停められないように注意を払って走る。
それでも、5回ほど、1車線に狭まったところで停められ、有無を言わさず、パスポートとカイエンの登録書を取り上げられ、金を払わされた。
1000ルーブル(約4000円)と2000ルーブルを2回ずつセビられた。
どの警官も、親指と人差し指を擦り合わせる右手を僕らに突き付けてくるのが可笑しい。
「キャッシュはそんなに持ってない。ホラッ」とこちらの財布を見せると、「じゃあ、あるだけでいい」と、630ルーブルで“放免”されたこともあった。

他のラリー参加者たちも、みんな停められていた。
派手な出で立ちのラリーカーだから、無理もない。
 
ホテルに着いてから、ロビーや食堂などでは、みんなその話題で持ち切りだった。
ロシア語ができるドイツ人のオリバー・ヒルガーなどは、「議論の余地はまったくなかったよ。5000ルーブルも取られた」とボヤいていた。
 
ポルシェ・クラブ・シンガポール元会長のエディ・ケンは豪の者だ。
「カネなんて払わないサ。警官? 一度も停まらないよ。
停めようと寄ってくるけど、絶対に眼を合わせないようにするんだ」
 
カイエンSトランスシベリアの動力性能を以てすれば、モスクビッチやボルガなどのパトカーを振り切ることは容易だろう。
でも、先の道路を封鎖されたり、撃たれたりしたら、ラリーどころではなくなってしまう。

「彼らは、絶対に追っかけてなんか来やしないサ。
だって、追っかける手間と時間を掛けるくらいなら、同じところにずっと“張って”いた方がカネになるじゃないか」
スルドい考察に、ちょっと舌を巻いた。

「エディは、どうしてそこまで言い切れるんだい?」
聞けば、シンガポールでは18歳になった男子には懲役義務が課せられ、軍隊か警察に2年間入隊しなければならないという。
「僕はバイクが好きだったから、警察を選んで、白バイライダーを懲役が終わってからも7年間勤めていた。だから、警官の心理は、よくわかっているのサ」
なるほどー。
 
ま、とにかく、ロシアの道で唯一最大の厄介者は、次から次に現れるタカリ警官だ。
それを除けば、道は空いているし、ガソリンスタンドは急速に整備されてきているし、景色は雄大だし、シャシャリクは美味いし、人々は優しいし、いいところなんだ。

●眼前の山を右から回るか、左から回るのか?

リエゾンの連続は、車内の緊張感を欠く。
それはそうだろう。
ラフロードを全開加速し、カクテルシェイカーの中に入ったかのように揺すられ、車外に見えるものすべてをヒントにして行き先を決めなければならないスペシャルステージに較べてみれば、タイムリミットのないリエゾンは退屈だ。
 
それでも、僕と小川さんはロシアのリエゾンを楽しんだ。
ペースを落として走っている時には、車内もうるさくならないので会話も弾む。
お互いの生家が近かったので、昔の東京の街について共通の話題が見付かって盛り上がったりしていた。
だが、楽しいドライブも、いきなり中断を余儀なくされた。
 
ピ~ピ~ピ~。
警告音が鳴り、メーターパネル内に“シャシー・アクシデント”と表示が出た。
と同時に、ゴムの焼ける匂いが。
 
ノボシビルスクからコシュアガシュに向かう山間部に入って、しばらく走った未舗装路で、パンクした。
カイエンSを路肩に寄せ、降りて見てみると、左リアタイヤがパンクしている。
サイドウォールが、鋭利なナイフで一掻きされたようにスパッと裂けている。
 
トランクスペースに積んであるスペアタイヤとジャッキを降ろすために、私物のバッグ、工具箱、カメラ、パソコン、テント生活用食料、水などの荷物をすべて降ろす。
路面は砂利だから、出発前に東急ハンズ新宿店で切ってもらってきたジャッキ下敷き用の板も取り出して、タイヤ交換を始める。
 
リエゾン区間だからよかったけれど、スペシャルステージだったら、面倒臭いことになるナ。
 
嫌な予感は的中して、僕らのゼッケン15番号カイエンSトランスシベリアは、この先、パンクの連続に見舞われることになるのである。
 
タイヤを交換し終え、ホッと一息ついて、すぐ横の崖を見ると、岩が層状に割れている。
割れた岩が石となり、路肩に散らばっている。
何千年だか何万年だか掛かってミルフィーユのように割れた岩のエッジはナイフのように尖っていた。
 
どこの国でも、陸路で国境を越えるのは少し緊張を伴う。
ロシアからモンゴルへの国境越えも、ラリーのオーガナイザーは神経を遣っていた。
全車を一列に並べさせ、まとめてロシアを出国し、そのまま他のクルマに間に入られることなく、モンゴルに入国させようとした。

だが、クルマの登録書類の書式がバラバラだったり、書類を提出する順番を守らなかったりして、簡単に運ばない。
ロシアのパスポートコントロールと税関も、僕らは出国する者なのに容赦はなく記入に不備があったりすると、厳しく指摘して、やり直しを命じた。
混乱する僕らと係官の間に入って、指示を出してみんなを助けたのがコロンビア・チームのクリスチャン・フェイルファイファーだった。
モンゴルに入国して、お礼かたがた、出入国やクルマの通関作業に詳しいわけを訊ねると、コロンビアでポルシェとトヨタを輸入する会社を経営しているという。詳しいわけだ。
 
クリスチャンの尽力もあり、ラリーカーは無事に国境を通過してモンゴルに入国した。
今日からゴールのウランバートルまでは毎日、移動しながら草原でテント泊だ。
スペシャルステージも毎日予定されている。
ロシアでのそれのような20~30kmの短いものではなく、短くて295km、長くて428kmもある。
その分、リエゾン区間が100km以下と極端に短い。
つまり、次のキャンプ地までの移動しながらタイムを競うことになるわけだ。
閉鎖された森の中の人工的に作ったステージで争っていたロシアと、まったく違う戦いになる。
 
国境を通過した翌日も、オルギーに止まった。
ラリー中唯一の休日だ。
痛んだラリーカーに手入れをしたり、必要な物資をオルギーの街まで買い出しに出掛けたりしている。
幸い、僕らのゼッケン15番はこの時まではクルマにダメージはないので少しだけ気が休まる。
小川さんはカイエンS各部のチェック、僕はルートブックの確認に専心した。
チェックポイントの緯度と経度から、ルートの概念図をノートに書き出し、イメージをつかもうとした。
 
どこで手に入れたのか、イギリス・チームのニール・ホプキンソンはモンゴルの詳細な地形図をカイエンSの上に拡げて何かやっている。 覗き込むと、緯度と経度から割り出したウェイポイントの位置をマッピングしていっている。
 
原理的には、僕とニールは同じことをやっているのだが、大きなアドバンテージにはならないだろう。
なぜならば、モンゴルでのスペシャルステージは文字通りの“道なき道”を走ることになるから、地図を持っていても、あまり役立たないからだ。
 

例えば、ウェイポイントが北東10km先にあることまではGPSが正確に示す。
しかし、手前に山があったり、河が流れていたとする。
山を右から回るのか、左から回ればいいのか。
あるいは、河のどこを渡ればいいのかはGPSもルートブックも教えてはくれない。
それを判断するのがラリーの競技の本質で、コ・ドライバーの役割なのだ。
 
モンゴルでの1回目のスペシャルステージは、マンクハンまでの295km。
ミニマムタイムが3時間、マキシマムタイムが6時間。
6時間を越してゴールすると、ペナルティが課せられる。
 
小石混じりの土が地平線まで続く原野に向けてスタートする。
地元のクルマが通った轍を探りながら走らなければならないから、気を抜けない。
轍を外して近道を取ることもできるが、岩や穴が隠れているからリスキーだ。
 
轍は、この辺りの人々の乗るクルマのトレッド幅に忠実に掘られるから、カイエンSでは、左右タイヤのどちらかが轍の土手に乗り上げてしまうことになる。
轍がカーブしていたり、土中に埋もれている鋭い岩などは、とても運転席と助手席から見分けられるものではない。岩や石を見付け、ハンドルを切って前タイヤで避けることはできる。
しかし、後タイヤは内輪差で踏み付けてしまう。
轍のすぐ脇が断崖になっていたりすするから、もう避けられない。
 
結局、同じような状況で2回パンクした。
車内に積んであるスペアタイヤ2本を使い切った。
ゴールまで、あと2kmと迫ったところで、三度、警告音が鳴った。まさか?
 
スペアタイヤは、もうない。パンク修理材は持っているが、2本とも、ホイールリムまで曲げてしまっているから、エアを充填することはできない 。
リタイヤするしかないのか……。
 
小川さんと途方に暮れていたところに、彼方からクルマの近付く音が聞こえてきた。
エディたちだ!
 
ジャッキアップしたカイエンSの傍らで立ち尽くしてた僕らを見つけた彼らは、停まって降りてきた。
「オレたちのスペアタイヤを1本貸そう」
 
ロシア2回目のスペシャルステージで水没したエディたちを助けた僕らが、今度は助けられる番になった。これで貸し借り帳消しだ。スッキリした。
リタイヤすることもなく、大幅なペナルティを喰らわずにも済んだ。
ラッキーだった。

 

●移動しながら競い合う

国境を越えてロシアからモンゴルに舞台を移すと、トランスシベリア2007ラリーは、競技の様相を一変させた。
 
国境の街オルギーから、ゴールのウランバートルまでの約2500kmのほとんどすべての区間がスペシャルステージとなるのだ。
 
ロシアでは、8日間約4500km中の3日間中の合計わずか95kmがスペシャルステージだったに過ぎない。
それが、モンゴルでは8日間(休日を1日含む)中6日間で合計1863kmがスペシャルステージとなるのだ。
 
これが何を意味するのか?
ロシアでは、山や森の中に特設された“スペシャルステージ会場”へ移動し、数十kmの競技を行った。
例えてみれば、僕らが日本で鈴鹿や富士スピードウェイなどのサーキットで行われるレースに出場するようなものだ。
日常の交通状況から、いったん切り離したところでコンペティションが行われる。
 
だが、モンゴルでは、キャンプからキャンプへの移動がそのままスペシャルステージなのだ。
鈴鹿や富士でレースをするのではなく、東京から名古屋、日によっては 大阪ぐらいの
距離を移動しながら、競い合うことになる。
ウランバートルまでの移動行程すべてが、スペシャルステージだ。
ステージ中の数十キロだけ速く走れればいいというものでは済まず、朝にキャンプを出発して、夕方頃に次のキャンプに到着する6から8時間、
時にはそれ以上を競い合う。

 

道路があるわけでなく、走る場所は、草原だろうが、岩場だろうが、河原だろうが関係ない。ありとあらゆるところを走る。
つまり、「どこを、どう走っても」構わない。
その代わり、「どこを、どう走るか」の判断を誤ると、スタックやパンクに見舞われる。
その判断を下すのが、コ・ドライバーの主な役割のひとつでもある。
 
モンゴルでの1回目のスペシャルステージは、オルギーからマンクハンまでの295km。
どんなコースなのかは、ラリーの主催者しか知らない。
選手たちは、みんな初めて走るところだから、何も知らない。
すでに手渡されているルートブックのモンゴル編は、ロシアのそれよりも簡素なものになっている。
「電柱の手前側を直進せよ」といった簡潔な指示の横に、幼稚園児が描くような手書きの電柱が何本か並んでいる手前に矢印が記されているだけ。
大雑把で、ラフな指示しかなされていない。
こんな簡単なものじゃ、使い物にならないじゃないか!?
不安ばかり言っていても始まらない。他のチームだって、同じ条件なのだ。
 
モンゴルでの1回目のスペシャルステージのルートブックを繰っていくと、スタートして5km行ったところに、「ディッチditch」と太い線が記されていた。
ディッチの意味が分からず、携帯電話に内蔵されている英和辞典にも記載されていなかったので、シンガポールから参加しているプラディップ・ポールに訊ねてみた。
「ディッチは、幅の狭い川という意味」
 
水が流れているかどうかは行ってみなければわからない。
スタート地点から、踏み固められた土の上を、ドライバーの小川義文さんはエンジン全開でポルシェ・カイエンSトランスシベリアをスパートさせていた。
見晴らしがよく、路面に石や岩が少なく、進むべき方向も明らかなので、小川さんは遠くの地平線に向けてカイエンにムチを入れる。

ウエイポイントである、石を泥で塗り固めた塀が見えてきたので、ゆっくりと速度を落としながら、端まで行って向こう側に回り込む。
背丈ぐらいの薮が続く先に、ディッチが横切っているはずだ。
GPSは目標物との距離をセンチ単位で表すことができるほど正確だが、どのように潜んでいるかまでは教えてくれない。 
薮を抜けると、スズキ・グランドビターラの一台が、つんのめるようにして前輪をディッチに落とし、スタックしている。
 

僕らは、なるべく越えやすいところを探すために、ディッチ沿いにゆっくりと走らせた。
グランドビターラから数百メートル離れたところが幅が狭くなっていたので、そこを突破することにした。念のために、僕が降りて、ディッチを探ってみる。
幅は50、60センチ。両側とも踏み固められた平坦な砂地だ。水が流れている。
この幅なら、カイエンの18インチタイヤが難なく踏み越えられるだろう。
 
だが、それは目論み違いだった。
小川さんをディッチに対して少し斜めの進入角度に誘導し、前輪が越えたところまでは良かった。
前輪がディッチを越えた際に上げた流れの水が岸沿いの草を濡らし、後輪を滑らせている。
少しバックさせて勢いを付けても、後輪は滑り続けるだけだ。
 
小川さんは、カイエンから脱出用のステンレス製の導板を取り出し、草とタイヤの間に押し込んだ。僕はスコップで後輪の周りの砂を掻き出す。
固い地面が、思いのほか掘れている。
 
僕らよりも後からスタートしたラリーカーが、僕らの脇を一台、また一台と通り過ぎていく。
彼らは、ディッチに対して大きく角度を付けて進入し、渡り切っている。
僕らは、それが足りなかった。
 
導板がタイヤにうまく喰い込まず、後輪は砂地にどんどん埋まっていく。
もっと角度を付けて小川さんを誘導するべきだったという後悔と、掻いても掻いてもなくならない重たい砂に、焦ってくる。
 
と、格闘している僕らの横に停まってくれたのが、
メルセデスベンツGD250でスペインからプライベート参加しているアギラ親子だった。
お父さんは250GDのテールゲートを開け、牽引ロープを手にしている。
「引っ張り出そう」
 
ハンドルを握っている息子のホセが窓から顔を出しながら、ゆっくりとカイエンを引き上げてくれた。
彼らとは、ロシアとモンゴルの国境通過で長い時間待たされている時に立ち話をして、親しくなった。
バルセロナで、父はレンガ工場を経営し、息子は弁護士。
親子ともにモータースポーツは初めて参加するが、息子はアフリカ縦断やサハラ砂漠横断など、クルマで長距離旅行をするのが好きだ。
僕は一年前にバルセロナを訪れていたので、「ランブラス通りのバルで、ハモンセラーノを肴にリオハで一杯やったよ」と、
他愛もない世間話をしただけだった。

「ムチャスグラシアス。じゃあ、キャンプで会おう。アディオス」
GD250はディッチを斜めに横切り、ガラガラガラッというディーゼルの排気音を残して、戦線に復帰していった。
「カネコさんが彼らと仲良くしていてくれたんで、助かったよ」
親子が偶然、僕らのそばを通った幸運と彼らの善意に感謝して、僕らもすぐに後を追った。

●ハイスピードの犠牲

ディッチを抜け出してからは、小川さんは快調にカイエンを飛ばした。
見晴らしは良く、路面は固い砂地。時速100キロをコンスタントに維持している。
ルートも、トリッキーな設定ではなさそうだ。10キロ以上先だろうか。
ルート上とおぼしき遥か先を、狼煙のように上がった砂煙が何本も移動している。
僕らの他には、自動車をこんなに高速で走らせている地元のクルマはいないはずだから、ラリーカーに違いない。小川さんは、さらにペースを上げる。
 
長い斜面を上がり切って視界が開けたところで、2台のカイエンが路肩に停まっている。
傍らでは、コロンビアチームのクラウスが路上で腕を上下させ、スピードを落とせといっている。
「コースアウトして、斜面にクラッシュした。オレもクリスチャンも、大丈夫だ」
とは言ったって、もう一台のオーストラリアチームのポール・ワトソンがカイエンの脇の地面で寝転がっているじゃないか。
彼は大丈夫なのか?
「胸を強く打ったみたいだ。救急車と連絡が取れて、こっちに来てもらっている。大丈夫だから、先に行け」
 
2台は衝突したのではなく、たまたま同じところで単独にクラッシュしたらしい。
飛ばし過ぎてコントロールできなくなったのだ。
 
その気持ちは、よくわかる。多少の凹凸や石、ブッシュなどを掻き分けながらとはいえ、
見晴らしの良い荒野のどこをどう走っても構わないのだ。
ましてや、乗っているのは385馬力&4輪駆動のカイエンSトランスシベリアだ。
スピード制限も、走行区分も、一時停止もない。警官だって、もちろんいない。
クルマに乗って、こんな自由は今まで感じたことがなかった。
あらゆるものから解き放たれて加速していくことの快感にヒリヒリしてくる。
 
その代わり、縦横無尽にフィールドを駆け回っていながらも、身を守るためにつねに五感を働かせて細心の注意を払っている獣のように、危険は自分たちで察知し、遠避けなければならない。
自由の分だけ自衛する必要がある。
 
獣の代わりに僕らが持っているのは、カイエンと最新のGPS「ガーミン60CSX」だ。
GPSは地球の周りを周回している12個の人工衛星からの電波をキャッチし、地球上の任意の2点間の距離と方位を正確に割り出す。
トランスシベリア2007では、ルートブックにおおまかに記された目標物を目印にし、GPSが示す方位と距離、標高や緯度、経度などを参照しながら、ウェイポイントを通過していく。
 
カーナビはGPS機能を用いて、それに詳細なマップソフトを組み合わせたものである。
2点間の距離と方位を示すのに加えて、途中のどの道を進めば良いのかを演算して教えてくれる。
僕らが使ったガーミン60CSXには、その類いのソフトウェアが組み込まれていないから、2点間をどう進むかを自分たちで判断しなければならない。
ルートブックとGPSを使い、目の前の荒野や山や川などの、どこをどう走り抜けるか。
その解釈と判断が、勝負どころとなる。
 

僕はラリー初体験だったが、モンゴルに入った頃にはGPSの使い方も、おおよそマスターできるようになっていた。
GPSが示す最短距離の方角上に、山がそびえていたり、ブッシュが生い茂っていたり、何かしらの障害物が目の前に現れた時にどれだけ迂回して、いつ方向転換すれば良いのか。
ヨットの進み方や三角関数を頭に思い浮かべて、なるべく最短距離に近くなる理想的なラインを追い求められるようになっていた。
しかし、理想に近付けば近付くほど、リスクが増してくることには気が付いていなかった。

「なるべく、ワダチを走るよ。ワダチは先行車だけじゃなくって、地元のクルマが通った跡でもあるから、リスクが少ないからね」
ドライバーの小川さんは運転に集中しているから、走行ラインをどう採るかは関知しない。いかに速く、クルマを壊さずに運転することに全力を挙げている。
 
理想を追い求めるか、リスクを避けて現実をなぞるかドライバーとコドライバーの思惑が交錯するところだ。
「大丈夫? じゃあ、最短距離を行ってみよっか」
 
ワダチは最短距離から大きく迂回しているので、少し外れて走るだけで、大幅に距離を短縮し、タイムを稼げるはずだった。
小川さんは右足に力を込め、カイエンを加速させた。
ワダチは消え、背丈30、40センチぐらいの短いブッシュの上を、再び時速100キロ近くで疾走する。
一瞬、身体が軽くなった。と同時に、カイエンは宙を舞い、フロント部分から地面に叩き付けられた。

グワッシャーンッ。
ブッシュが同じ背丈で生えていたので、深い溝を飛び込んだのがわからなかったのだ。
ダァーン。ガギガギガギッ、落下の衝撃も大きかったが、身構えていなかったがゆえに、
首が軽いムチ打ち症だ。小川さんは、腰に来たらしい。
愚かにも、僕が最短距離を行くことを提案した結果が、災いした結果だ。
 
幸いにして、カイエンは変わらず走り続けてくれている。
再び、ワダチに戻って走り続けることができた。

●多発するアクシデント

お互い、首と腰に痛みを抱えながらも、僕らはマンクハンからダルヴィまでのスペシャルステージ330kmを走り切ることができた。
ゴール後、少し離れたところに待機しているトラックから、 ガソリンを給油する。
ここに限らず、モンゴルのスペシャルステージのゴールでは、辺りには何もないので、主催者がガソリンを満たしたドラム缶をたくさん積んだトラックを手配してあるのだ。
 
ジャーッ。
位置に着け、エンジンを切った途端に、ボンネットの下から何かが滴り落ちてきた。
真っ黒いエンジンオイルだった。
勢いは止まず、ほぼすべてのオイルを流出させて、停まった。
覗き込んでみたが、折れ曲がったアンダーガードの脇から滴り落ちてくるので、損傷したところはわからない。
いずれにせよ、さっき溝に落ちた時に打ち付けたことが原因に間違いないだろう。

「せっかく無傷でここまで来たんだけど」
アドベンチャーラリーでは、飛ばしてクルマに負担を掛けてトラブルを誘発するよりは、壊さずにどれだけ走り続けられるが勝敗を決するといつも口にしていた小川さんにとって、望ましくない事態が発生した。
「ここじゃ直せないから、とりあえずキャンプに運んで、ポルシェのメカニックと相談しないと」
 
エンジンオイルがすべて流出してしまったので、走らせるどころか、エンジンも掛けられない。
幸い、僕らの次に給油の順番待ちをしていたドバイ・チームのカリームとブレアに牽引してもらえることになった。
 
ここからキャンプまで約100km。エアコンが使えないので、窓を開けて引っ張ってもらう。
それまでキレイだった車内は、一発で泥まみれになった。
早くキャンプに行って、休みたいところなのに、カリームとブレアは快く牽引を引く受けてくれた。
 

2時間以上掛かってキャンプ地にたどり着いても、まだ、多くが到着していない。
遅れているチームの動静について、みんなで情報交換し合う。
中でも、カナダチームのクラッシュは深刻そうだった。僕らと同じように、草原でスパート中に、縦に転び、3回転したらしい。
途中でエンジンマウントが千切れ、V8エンジンはフードを突き破り、100メートル先まで飛んでいった。
ドライバーのローレンス・ヤップは6点式シートベルト付きのバケットシートに換装してあったので、生命に別状はないらしいが、救急車で遠くの病院に運ばれた。
 
その晩のブリーフィングは、厳粛なものとなった。
ローレンスの他にも、クラッシュして怪我を負ったドライバーが何人かいたことが明らかにされた。
元WRCドライバーのアーミン・シュワルツやカレラカップ・ドライバーのセルマ・カーレスなど優勝候補の連中も、派手にクラッシュしたらしい。

「ダメージを負っているチームが多く、コースコンディションも厳しい。
明日のコースで今日のようにアクシデントが連続すると、救急車が救援に向かえないので、明日のスペシャルステージはキャンセルする」
 
オーガナイザーのリチャード・シャラバーから、キャンセルが発表された。
いつもは、地面に寝転がったり、何か食べながらビリーフィングに参加していた選手たちも、この時は全員立ち上がって聞き込んでいる。
そして、すかさず質問を発したのが、往年の名ラリードライバーのサイード・アルハジャリだった。
「モータースポーツにアクシデントは付きものだが、オーガナイズの不手際が多いのではないだろうか。
例えば、コース上の危険なところについての情報を事前に開示してくれていれば、今日のアクシデントのいくつかは防げたはずだ。
我々は、モスクワからウランバートルまで競走をしに来たのだ。
オーガナイザーの不手際の度にスペシャルステージがキャンセルされたのでは、たまらない。我々は、ピクニックに来たのではない」
参加者全員から大きな拍手が起こった。
 
アルハジャリは1986年にエジプトで行われたファラオラリーにポルシェ959で総合優勝している。
小川さんは、同じラリーに三菱パジェロで出場していた。
ふたりは再会を喜び、僕はアルハジャリに質問してみた。

「オフロードドライビングで一番大切なものは、眼だ」
アルハジャリは、両方の人指し指で自分の眼を指し示した。
「自分の走る方向をよく見て、認識することだ。ただ飛ばすだけじゃ、ダメだ」
そう言うと、今度は右手で自分の左スネを叩いた。
いつも、にこやかに微笑みを絶やさず、優しい眼差しのアルハジャリの眼光が一瞬、鋭くなった。
オーガナイザーの不備を批判するのと同時に、無闇矢鱈と飛ばしてクラッシュしている参加者たちをも戒めているようだった。
砂漠の王者は、すべてを見通していた。
 

夜遅くにキャンプに到着したポルシェのサポートトラックに駆け寄り、エンジンオイル漏れの修理を依頼する。
「先に取り掛からなければならない修理が終わったら着手するから、そこに移動しておいてくれ」
 
5、6名いるポルシェのメカニックは、タフだ。
ラリーカーと同じルートを移動しながら、道中で、キャンプで、早朝から深夜まで眠る間もなく修理に追われている。
明朝8時のスタートに間に合わせてくれることを祈ることしか、もう僕らにできることはない。
泥だらけのカイエンを動かし、シュラフに潜り込んだ。

明朝6時、起床。真っ先にカイエンの元に駆け付けると、メカニックたちはすでに作業を始めている。
「あれから、オイルパンの溶接を始めて、午前2時まで掛かったよ」
僕らのカイエンは修理完了していたので、胸を撫で下ろし、メカニックに礼を言いながら、8リッターのモービルワンを注ぎ込んだ。

●川の中でスタックした

ダルヴィからアルタイまでのスペシャルステージはキャンセルされたが、僕らはアルタイまで移動しなければならない。
スペシャルステージをそのまま行くのではなく、地元住民の使う生活道路やワダチをたどっていく。
彼らはゲルと呼ばれるテント型の住居に住んでいる。
家畜を追いながら遊牧して生活している。
馬に乗って牛や羊を追っている者もいれば、中国製の90ccや125ccのオートバイに跨がっている人もいる。
大家族なのか、大型のゲルの脇には、たいていパラボラアンテナが立っていて、テレビの衛星放送を受信している。
 
峠や山の頂上には祠が建てられ、チンギス・ハンの胸像などもよく見掛けた。
僕らには面影がほとんど認められないようでも、ノマド(遊牧民)の暮らしが息づいている。
 
アルタイからバヤンコールへのスペシャルステージは408km。
ルートブックを見ると、川を何本も渡ることになっている。
山から流れ出た雪解け水がまとまって太い川となる手前の段階を横切る。
 
スタートして、最初から選択を迫られた。川が枝分かれしているから、アミダくじのように渡っても渡っても、現れてくる。
川底が見えるような浅いところでは、小川さんはそのままゆっくりと渡るが、深いところや流れの急なところでは副変速機でローレンジを選び、センターデフをロックして渡る。
それでも、目測を誤ると、フワリと水中でタイヤが川底を離れ、カイエンが流されるのがわかる。
底の石が見え、川幅も広くないところを渡ろうとした時に、スタックした。
流れに少しの角度だが、逆行したのが間違っていた。
川の中に入っていってみると、流れは思いの他、速くて強い。
川底の石でタイヤが滑り、エンジン回転を上げると、石が跳ね、カイエンは深く潜っていく。このままもがき続ければ、立ち往生だ。
僕も小川さんも、同じ心配をし始めた時に、幸運がやって来た。
ポルシェのメカニックたちが乗るサポートカーが通り掛り、ロープで引っ張り上げてくれてことなきを得た。

山と山の間には必ず川が流れていて、渡っても渡っても、次々と現れてくる。
たまに橋が架けられていたりするが、たいがいは洪水で流されていたり、真ん中から折れていたりするから、アテにはできない。
橋をアテにするよりは、カイエンから降りて流れに入り、深さと速さを確かめて、
小川さんを誘導する方がどれだけ確信が持てただろうか。
おかげでカイエンのシートはズブズブになったが、またひとつ“地球を、自分の身体と勘で確かめ、判断すること”の気持ち良さを感じることができた。
獣に戻ったような錯覚さえ覚えた。
アドベンチャーラリーに初めて参加してみて体得したものがあるとすれば、この一点に尽きるだろう。 唯一の文明の利器GPSを使って、地形や地勢を手がかりにして、進むべき方向を自分で判断して見付ける。
獣の五感と現代人のテクノロジーを使って、いかに進路を見付け、速く移動するか。
 
日本でクルマを運転していると、カーナビや携帯電話をはじめとして、便利なものがいろいろと手助けやお節介をしてくれる。
便利なものは生活を楽に運んでくれるが、それらに頼らず、A地点からB地点までの移動を競うのがアドベンチャーラリーだった。
日本の、忙しない自動車生活からは最も遠いところにあるもの、と取りあえず僕は結論付けることにした。
 
モスクワから15日間で約7000km走って、ウランバートルに到着した。
総合12位、クラス9位。幸運に恵まれ、友人たちに助けられた結果だ。
完走できたことが、何よりもうれしかった。
8日ぶりに浴びたシャワーで、身体からなかなか泡が立たなかったのは獣の垢がこびり付いていたからだろう。

 

●取材メモを繰りながら

忘れ掛けた頃になって、「トランスシベリア2007」の主催者、リチャード・シャラバーからラリーのスタートからゴールまでを網羅した映像を記録したDVDが送られて来た。
ビデオクルーが撮影していたのは、もちろん知っていたが、初めて眼にする光景や知らないことも撮られていた。
ラリーから、もう半年なのか、まだ半年なのか。 
夏のロシアやモンゴルとは正反対の寒い冬の東京で映像を見ていると、ずいぶん前のことのように思われる。
リエゾン中のカイエンSトランスシベリアの助手席や、テントの中でシュラフに潜り込みながら記したメモが残っているルートブックを取り出して来て、DVD映像をもう一度最初から観てみよう。

 

●8月3日

いよいよ、トランスシベリア2007のスタート。
4日前から宿泊している巨大なコスモス・ホテルをチェックアウトし、ゼッケン15の「カイエンSトランスシベリア」でスタート地点の赤の広場へ向かう。
参加者や主催者、関係者は全員コスモスホテルに宿泊していたので、赤の広場へは主催者が手配したパトカー数台の先導によってコンボイ走行で向かう。
だが、列はすぐに途切れた。モスクワも大都市だから朝の渋滞がすさまじい。
近年の好景気からなのか、あちこちで工事を行っており、迂回路を通らされたりして、バラバラと赤の広場に到着した。

ここから139km西へ走ったところで、1回目のスペシャルステージが行われる。
だから、ここからのスタートは儀式的なものに過ぎない。
モスクワの副市長が挨拶し、テレビの取材などが行われ、ゼッケン順に広場を走り出していく。

サポートと応援のために日本から帯同していただいたポルシェ・ジャパン・マーケティング部の牧野一夫さんと鈴木祐さんが、いつまでも手を振ってくれるのがうれしく、心強かった。

モスクワ中心部を抜け、東へ向かう国道M7を行く。
この道は、2003年に自分のクルマでユーラシア大陸を横断した時に逆方向から走ってきた道だ。あの時は、モスクワ市内の混雑を嫌って、環状線を北上し、サンクトペテルブルグ方面へ進んだ。
その環状線とM7が交差するところでちょうど交通渋滞が発生し、ゆっくりと当時を思い出すことができた。

“おそらく、こんなところまで、もう二度と来ることはないだろう”モスクワの街に来ることはあるかもしれない。でも、環状線とM7が交差する、東京で喩えれば国道246と環八が交差する用賀交差点みたいなところに、それも逆方向からクルマで来るとは。旅とは、わからないものだ。

道は変わらないが、両側の様相はかなり変化してきている。都市化が始まっている。
2003年には見たことのなかった、アメリカンスタイルの大型ショッピングセンターや大ガソリンスタンドなどがロードサイドに続々と建てられている。
みんなピカピカで新しいから、この数年のうちに建てられたものだろう。

もうひとつ4年前と大きく違っているのは、携帯電話の普及だ。
モスクワ市内でも、日本や中国、欧米諸国などと同じように、携帯電話で話しながら歩いている人が多い。
M7の赤信号で停まったら、歩道にいた子供に携帯電話で写真を撮られた。
こんなことは、4年前には想像もできなかった。

モスクワ全体が、“バブル”な雰囲気を漂わせている。
モスクワ到着翌日に、赤の広場に下見に行った時に、広場の向かい側にあるケンピンスキー・ホテルの前を通った。
ケンピンスキーは、ドイツ系の高級ホテルチェーンだ。
ホテルのエントランスの前には、これ見よがしに高級車が停められていた。
ロールスロイス・ファンタム、マイバッハ63、メルセデスのSやGクラスのAMG版、ポルシェ・カレラGT、アストンマーティン・ヴァンキッシュ、フェラーリ599と612スカリエッティ、各種ベントレー等々。みごと、2000万円以上のクルマしか並んでいなかった。スーパーカーショーじゃないんだから。

●プライベーターの911

トランスシベリア2007の主催者は、ラリーカーや関係車両を途切れさせないために、羊飼いの犬のように列の途中や後ろに前後して西へと進んでいく。
一本道なので迷うはずもないのだからそのまま進めばいいのに、路肩や広場にラリーカーを停めて、確認作業を怠らない。

「オレはエリック。911で参加している。ヨロシク。
君らのマムートのステッカーはカイエンに似合っていてカッコイイな」
広場に停まった時に、マルティーニ・カラーに塗ったポルシェ911に乗るエリック・ブランデンブルグから話し掛けられた。
あとで確かめたら、名前にドクターと付いていたから博士だ。何の博士だろう。
 
911は、ボディとエンジンこそ1975年製のものを使っているが、徹底的に改造されたスペシャルだ。
サファリラリーで優勝した時のワークス911のように、80%扁平のハイトの高いタイヤを履いている。
僕らのカイエンはロードカーのように薄い55%扁平だ。
スペシャルステージで、このタイヤに悩まされることになるとは、まだこの時点では気付いていない。
 
M7から側道に外れ、白樺林の中を延々と進んでいったところが、今日のスペシャルステージのスタート地点だった。
背丈くらいの草が生い茂り、遠くには、高さ20m以上の白樺が林立している。
 
スタートを待つ間、ドライバーの小川義文さんは準備に余念がない。
タイヤの空気圧と異物のチェックを済ませると、カイエンのリアドアを開けて、荷物を確認する。荷物の固定が緩んでいないか、各種のタイダウンロープやネットなどで荷物や工具などを締め付ける。
 
スタートが近付き、ヘルメットを被る。
どんなスポーツでも、ヘルメットを被る瞬間は緊張するものだ。
アライヘルメットが作ってくれた、日の丸を大きくペイントしたジェット型が頬を締め付ける。
 
インターカムのジャックをヘルメットに差し込む。
スペシャルステージ中は、エンジンや走行音と、ヘルメット着用で 会話が掻き消されてしまうから、ヘルメットに組み込んだ小型マイクとスピーカーを使って会話を行う。
ノブを回してボリュームを上げると、フィ~ンというノイズが微かに聞こえてくる。
 
1回目のスペシャルステージだから、スタートはゼッケン順だ。
15番目。
14番は、スズキ・グランドビターラの女性コンビ。 16番は、コロンビア・チームのクリスチャン・フェイルシュナイダーとクラウス・ヴァターだ。
 
クリスチャンとクラウスのふたりとは、5月にポルシェが行ったトレーニングで会い、よく話をしていたから気心が知れている。
トレーニングは、カイエンを生産しているライプチヒ工場に隣接するビジターセンターと、すぐ近くの旧東ドイツ陸軍演習場で行われた。
 
ふたりともモータースポーツの経験はないが、参加してきた。
クリスチャンは、見た目、30代後半。
コロンビアにポルシェとトヨタを一手に輸入する会社を経営している。
クラウスはだいぶ年配で、60代だろうか。右足が悪いようで、ビッコを引いている。
クリスチャンは、毎年、豊田市に出張しているから、日本語が少し話せる。
向こうも、こっちも、お互いになんとなくシンパシーを感じている。

小川さんはパリ・ダカール・ラリーに7回出場し、他にも豊富なラリー経験を持っているベテランだ。 セミプロと呼んで構わないだろう。
だが、僕は初体験だ。自動車レースのリポートは今までたくさん書いてきたが、自分が当事者になるのは初めてのことだ。
 
ジョージ・プリンプトンが「ペーパーライオン」を、沢木耕太郎が「一瞬の夏」を、あるいはデニス・ジェンキンソンが「ウィズ・モス・イン・ザ・ミッレ・ミリア」を書いた時のように、書き手自らが取材対象となり記事をまとめていくことになる。
当然、完走した上で少しでも上位を狙うわけだが、それと同時に“取材”をして記事を書かなければならない。
 
グランドビターラがスタートした1分後、スタート係のカウントダウンで僕らのスペシャルステージは始まった。

「じゃ、カネコさん、行きますよ。よろしくお願いします!」
小川さんのかしこまった口調で、厳粛な気持ちにさせられる。
2週間7000kmの戦いが始まったのだ。
 
1回目のスペシャルステージは、総合20位、クラス18位でゴールした。
1位は、ゼッケン2番のカイエンだ。
カルレス・セルマとヨルン・プグマイスターのドイツ人コンビ。
プグマイスターは、ドイツの週刊自動車雑誌『アウトモーター・ウント・シュポルト』のジャーナリストで、セルマはカレラ・カップに出場しているレーシングドライバー。

彼らのタイムは、34分15秒90。
僕らは、42分24秒43。33kmの行程で、8分以上遅かったことになる。
白樺林の中の、砂地混じりのフラットでストレートな路面が多く、平均スピードも高かった。
だから、カイエン勢には有利なステージで、トップから14位まではカイエンが占めた。

「初のコドライバーとしては、上出来だったよ」
フィニッシュし、広場でヘルメットを脱ぎながら、小川さんに褒められた。
先行のカイエンが曲がったのが見えたので、よく吟味せずに同じところで曲がってミスコースして、数分間の遅れを取ったのが悔しかった。
あれがなければ、5台分順位を上げられたはずだ。

「いや、カネコさんは“ミスコースだ”って、自分ですぐに気付いたでしょ。
そこが大事なんだよ。気付かないコドライバーは、あのままドンドン行っちゃうんだから。
8分なんて、大したことないよ。これから2週間も走るんだから」
 
小川さんは、初めてのスペシャルステージの結果に満足していた。
「途中の長い直線で、後ろから迫ってきたランクルを抜かせたでしょ。
意味もなく、争ってもミスコースするか、メカトラブルを誘発するだけだからね。
とにかく、アドベンチャーラリーでは、クルマに負担を掛けないことが大事なんだ。
ノーミスはあり得ないけど、ノートラブルだったら、他が脱落して必然的に自分たちの順位は上がっていくから。
でも、みんなそれを我慢できないんだ。飛ばしたくなるからサ」
 
スペシャルステージから国道M7に戻るための林の中の一本道で、初めてのパンクをした。
割れたコンクリート舗装が土にメリ込んだ、ひどい道だった。
右後輪のサイドウォールが裂けている。
さきほど、路面から強い衝撃を受けた時だろう。
コンクリートの角で、やってしまったに違いない。

「ここの路面は、スチールが隠されているから気を付けろ!」
カイエンを路肩に停めてタイヤを交換していたら、後ろから来たゼッケン34番のカイエンに乗るオリバー・ハイルが停まって、話し掛けてきた。
ハイルはシュツットガルト近郊でポルシェ・センターを経営しており、若いカレラカップ・ドライバーのトーマス・ライトミューラーと組んで出場している。
 
オリバーの言う通り、よく見ると、ここの道路はヒドい。
林の中の道にアスファルトやコンクリートを流し込んで舗装するのではなく、どこかで解体されたビルなのか橋なのか、何かの廃コンクリート塊を持ってきて地中に埋め込んでいるのだ。
もしくは、流し込んだコンクリート舗装がデコボコになるまで割れてしまっている。
 
オリバーが教えてくれた“スチール”とは、鉄筋だ。
先の尖った鉄筋が剥き出しで飛び出ている。どうりで舗装がヒビ割れているかわかった。
割れているのではなく、割ったコンクリートを持ってきたのだ。
日本だったら、とても考えられない。
ロシアでは、“常識”では考えられないベラボウなことが、平気で行われている。
 
初日の宿は、ウラジミール市のホテル「ゴールデンリング」。
おそらく、ソ連崩壊後に建てられたものだろう。
西側基準の作りになっていて、ちょっと安心。小川さんと同室。
ホテルのレストランで、決まったメニューの食事を摂り、明日のコース確認や準備などを行って寝た。
長い一日だった。

●8月4日

朝7時30分にホテルを出発し、今日のスペシャルステージへ向かう。
ここから東南東に134km離れたところにある、M7をカザン方向へ進む。
M7は自動車専用道ではないが、片側2車線の、ロシアにしてはよく整備された道だ。
バイカル湖畔のイルクーツク市以西では、首都モスクワへ通じる大動脈なのだから、当然か。ラリーカーは、みんな150~160km/hで飛ばしに飛ばす。
 

M7を外れ、未舗装の泥の道を林の中に入っていく。
廃屋が何軒か残された、ちょっとした広場がスタート場所だ。
地元の人たちが、すでに老若男女集まってきている。

「深い川を渡るらしい」
誰ともなく、そんな噂だか情報だかが伝わり、
カイエン勢は一斉にシュノーケルを装着し始める。
シュノーケルは、できればずっと付けていたいが、エンジンへの 空気取り入れ口がフェンダーではなく、カイエンではボンネット上面に付けられているため、取り付けるとボンネットを開けられなくなってしまう。
だから、必要に応じて、車内から取り出して2本のトルクスねじで、そのつど取り付けなければならない。
 
ゼッケン7番のチーム・アジアパシフィック、エディ・ケンとプラディップ・ポールのシンガポール人コンビが、スクリュードライバーを借りに来た。
このふたりは、5月にライプチヒで行われたポルシェ主催のトレーニングの時から、僕らに何かと話し掛けて来ていた。
エディは中国系のガラス販売会社の社長。
競技経験は少ないが、クルマやバイクでの長旅が好きなようだ。
気のいいオヤジだが、オバさんのように喋りが止まらなくなり、ちょっと煩わしくなる時がある。
「同じアジア人同士、協力してやっていこう」と言って、ライプチヒで最初に握手を求めて来た。
 
プラディップは編集者で、新聞と雑誌の自動車記事担当だ。
僕らがエディを見る目を理解していて、「エディは、典型的なシンガポール人タイプ」とクールに構えている。
ブン屋だから、臆せず、いろいろな参加者の間を機敏に歩き回って、情報を取ってくるのがうまい。
 
スタート順は前回の成績順。前は、ゼッケン22番のチーム・ロシア1号車のカイエン。
後ろは、エリックの911カレラ。
 
スタートして50mぐらいで、コースが大きく右にカーブして林の中に入っていくので、見当が付かない。おまけに、このスペシャルステージは、ルートブック上での方角指示が記されておらず、ウェイポイントごとの緯度と経度の数値を、GPSと照らし合わせて大まかな方角を割り出すしか方法はない。
ウェイポイントには、備考として「穴」、「段差」、「壊れた橋」などと記されてはいるが、気休めにしかならない。
コースには、そこら中に穴や段差だらけだし、壊れそうな橋だってたくさんあるからだ。

●8月5日

今日は、ヨーロッパ・ロシアの大都市カザンからウラル山脈を越え、エカテリンブルグまで移動する。 スペシャルステージは、ない。
リエゾンと呼ばれる移動区間だけでも、ラリーによっては時間制限を設ける場合があるが、ブリーフィングで主催者からそれもないことが告げられ、参加者の間に弛緩した空気が流れた。 984kmを、ただ移動するだけだからだ。
これがヨーロッパ諸国ならば、高速道路を使って一気に移動することができるが、そんなハイスピードを出せないM7を延々と行かなければならない。
 
2003年当時と較べて、ロシアが大きく変わったものをもうひとつ挙げると、ヨーロッパの国々のように道行くクルマが昼間からヘッドライトを常時点灯するようになった。
トラックも乗用車も、最新のドイツ車だろうがポンコツのモスクビッチだろうが、必ずみんな点灯している。法律でも変わったのだろうか。
 
2003年8月にこのM7を通ってポルトガルまで行った時には東から西へ向かったので、夕陽に向かって走る苦痛に毎日見舞われた。
ブツかってツブれた虫で汚れたフロントグラスに夕陽が乱反射し、サングラスを掛けていてもとても見にくく、疲れた。
今回は、夕陽を背にして走るから、とても楽で助かる。
 
だが、今回の方が疲れるのは、時差だ。
東に進むにつれて実際の時刻よりも時計の針を進めなければならない。
今日は、エカテリンブルグに着いたら、2時間も進めなければならないのだ。
準備や片付けなど、やらなければならないことはいくらでもあるし、何もなかったとしたら、少しでも早く床に就きたい。
それなのに、2時間進めるということは、今日は22時間しか使えないということだ。
参加者みんな同じ条件だから不公平はないのだが、2時間分寝不足したような気がした。
 
ウラル山脈の途中には、有名なオベリスクが建っている。
そこには、“ここから西がヨーロッパ、東がアジア”と刻まれているが、
僕らは見物することなく先を急ぐことにした。
 
ウラル越えには何本ものルートがあり、今回は2003年の時とは違う、北側の道を通った。前回よりも、傾斜がなだらかな分、時間が掛かる。
前回通った道は、アップダウンが激しく、ブラインドコーナーも多かった。
カイエン向けのルートだから、走ってみたかったが仕方がない。
 
エカテリンブルグには、ほんの8ヶ月前に行ったことがある。
ダイムラー・クライスラーのイベント「Eクラス・エクスペリエンス パリ北京2006」に参加した途中で宿泊した。
今回の宿泊先が、偶然にも前回と同じホテル「パークイン」だった。
部屋からの眺めも、ほぼ一緒。奇遇、奇遇。
 
SASラディソン・グループの経営によるホテルなので、サービスもよく、レストランの食事も美味しい。
フロントでIDとパスワードをもらえば、自分の部屋で無線LANにアクセスしてインターネットを使うこともできる。
異国の長旅では、当たり前のことがうれしく感じてくる。

●8月6日

今日は、ロシアで最後のスペシャルステージが行われる。
東北東に42km行った森林の中がステージだ。
35kmの林間コースは、スタート地点から様子がうかがえない。
午後1時のスタート時刻が午後2時に延ばされる。
ここでの運営手伝っているのか、地元のオフロード・カー・クラブの面々が集まっている。
 
彼らのクルマを見ると、ここのステージが半端でなく過酷なものであることがわかる。
トヨタ・ランドクルーザーや日産サファリ、ランドローバー・ディフェンダーなどが、みな車高を上げ、ショックアブソーバーをダブルに改め、空気量の多い、扁平率の低いタイヤを履いている。

「こんなクルマじゃないと走れないくらい、相当マディなところなんだよ」
地元グルマの改造ぶりを見て、小川さんは驚いた。
午後2時になっても、スタートする雰囲気はない。
時々、地元グルマがスペシャルステージが行われるところへ往復している。

「スゴくマディで、難しい」
ゼッケン22番のチーム・ロシアのカイエンに乗るオレグ・ラステガエブに訊ねてみたら、彼は以前にここを走ったことがあるという。
ラステガエブはロシアの自動車雑誌の編集者だ。
これから戦争に行くんじゃないかっていうくらいの本格的な格好をしている。
膝下までのレースアップブーツに、カモフラージュの上下。
頭には、黒いバンダナを海賊巻き。
カラシニコフを、どこかに隠し持っているんじゃないか。

「キャンセルされるかもしれないゾ」
ブン屋のプラディップが、また誰かから聞きつけて来た。
 
午後2時30分になって、サイレンが鳴らされ、主催者がその場でブリーフィングを開いた。
「数日前に雨がたくさん降り、ぬかるみが深く、状況が厳しくなっている。
ここで、無理してクルマを壊してしまうわけにはいかない。
我々は、ウランバートルまで走らなければならないのだ」
 
案の定、スペシャルステージのキャンセルだ。みんなブーブー言っている。
今日は、テュメンまで残り263km移動するだけだ。
ロシア最後のスペシャルステージがキャンセルされたから、次のスペシャルステージは、
モンゴルに入ってからになる。それは6日も後のことなのだ。

●8月7日

オムスクまでは、M7ではなく並行して走る03号を行く。
モスクワから離れるに従って、少しずつ道路の状態も悪くなっていたが、ウラルも越え、さらに1時間分東に進んだこの辺りでは、明らかに路面状態が悪化している。
舗装が割れ、うねりや轍が連続する。
 
昨日の、スペシャルステージ・キャンセルについての主催者の言い分も理解できるが、何日間もドライブ同様の長距離走行が続くことで、小川さんも僕も気を削がれたことは確かだ。

「カネコさん、オムスクって大きい街なの? 
今晩は、気分転換してホテルの晩飯はパスして、自腹で中華でも行こうか?」
現金なもので、グッドアイデアに、ふたりのヤル気は一気に盛り返した。
 
オムスクのホテルは、ソ連時代に建てられた古いものだった。
食事は、絶対に期待できない。
主催者のひとりにロシア語に堪能な人がいたから、ホテルのレセプションで通訳してもらった。
中華料理屋があったら予約してもらって、遠いようだったらタクシーを呼んでもらおう。
 
すぐにやって来たヴォルガのタクシー運転手に、ロシア語スタッフは確認してくれた。
「“中華もあるけど、寿司はどうだ?”って言っているけど?」
「おススメはありがたいけど、その寿司は信じられないから、中華に連れてって」
 
ホテル「モロディザーニャ」は街外れにあったから、タクシーに15分ぐらい乗って、街の中心まで出た。
ロシアの大都市に多い、大きなスポーツ&芸術センター横に「ゴールデンドラゴン」はあった。
店は広く、ステージまである。立派な店構えとインテリア。
熱帯魚の大きな水槽まである。
中国人とロシア人の店員は、ロシアにしては例外的に愛想とサービスが良い。
 
ステラアルトワの生ビール、エビとカシューナッツ揚げ、竹の子サラダ、蒸し餃子、ビーフカツレツに白いご飯。
締めて、1335ルーブル(約5340円)。
ロシアの物価にしては、立派な高級店で、味も結構でした。

●8月8日

オムスクからノヴォシビルスクまでの、666kmは国道M51を行く。
ロシアは東に進むほど、“文明度”が薄くなってくる。
M51の両脇には、建物が少なくなり、背の高い白樺林や、とうもろこし畑やひまわり畑が延々と続く。
時々、道沿いに魚の干物売りが台を拡げて商売をしている。
地図を見ると、進行方向右側に大きな湖沼地帯が広がっている。
バイカル湖の辺りで、オムリという魚の薫製を買って食べたことを思い出す。
 
その干物売りと目が合うと、右腕を伸ばして親指と人差し指をピストルの形にして向けてくる。
この先で、警官がスピードガンで速度取り締まりをしていることを教えてくれる。
 
取り締まりのパターンが、読めて来た。
カーブした上り坂で追い越し禁止車線の先に隠れてスピードガンを構えている。
あるいは、遅いトラックに我慢できずに、禁止を犯して追い越すと先で待っている。
悪徳警官というのは、どこの国でも卑怯で下劣なものだ。

●8月9日

今日も、コシュアガシュまでの845kmを走るだけだ。
道は南東方向に分岐するM52。
ライプチヒでのトレーニング以来、久々にカイエンのステアリングを握って200kmほど走った。
トランスミッションの最終減速比が4.10にまで引き下げられているから、ダッシュは鋭いが伸びが足らない。
100km/hでのエンジン回転は2000rpm。エアサスは、「ノーマル」。
「コンフォート」ではボディの揺れが収まらず、「スポーツ」ではショックが強過ぎる。
フォート」ではボディの揺れが収まらず、「スポーツ」ではショックが強過ぎる。
 
道は、アルタイ山脈へと入っていく。
標高が高まり、周囲は山が近くなって来た。
緑の木々と草原に覆われ、美しい。黄色や紫色の花がアクセントになって、眼を楽しませてくれる。

いくつもの峠を抜けて南西方向に進んでいく途中、危ない目に遭った。
もしかしたら、ラリー中で一番危なかったかもしれない。
警察に、身柄を拘束されていたかもしれないからだ。
 
未舗装だが、片側2車線ぐらいある道を、エディたちのクルマを先頭にして、2台のカイエンで上っていた。
「人が倒れていますよ」
「生きているのかな」
小川さんは路肩にカイエンを停め、僕は窓ガラスを降ろして様子をうかがった。
「動いています。怪我か病気か、それとも単なる酔っぱらいか。ここからではわかりません」
同じように、カイエンを停めて見ていたエディが、降りた。
「エディのヤツ、誰かに見られたら誤解されるぞ」
 
呼んでも、聞こえないみたいだ。仕方がないから、降りて促そう。
倒れている人は、中央アジア系の顔付きをしていて、左手で胃の辺りを押さえている。
しかし、激しく苦しんでいるふうではない。
寝ぼけているとも、酔っぱらっているとも言えなくもない。
エディは英語と中国語で話し掛けているが、何も返ってはこない。
すると、脇の林の中からひょっこりと、同じような顔付きと身なりをした男たちが3人現れた。
倒れている人に必死に何か話し掛けているが、男からの返答はない。
「☆×@&%=##●=+?*☆!!」
「&☆+@#%$!!!」
「##●=+?*☆☆+@&%$☆##!!」
 
3人は、ものスゴい形相でラリーカーと僕らを指差しながら、わめき始めた。
「エディ、マズいぞ。僕たちが轢いたって誤解されているみたいだぞ」
 
言葉が通じないし、当人は答えない。
つまり、“僕らが轢いてはいない”と誤解を解く手立てが何もないのだ。
地元の警察にでも来られたら、その場で無罪放免というわけには絶対にいかない。

「オー、そうか、そうか。その通りだな」
エディはのん気なものだったが、僕は警察が追って来やしないか、ラリーが終わってウランバートルを経つまでずっと心配していた。
 
コシュアガシュでは、初のテント泊を行った。
明日、国境を越えてモンゴルに入ったら、ゴールのウランバートルまでは、ずっとテントだ。
コシュアガシュの村の手前の、川沿いでキャンプ。
幅20メートルほどの川の水は、手が切れるほど冷たく、白濁している。
周囲は山が取り囲んでいる。
国境に至る一本道から、傾斜のキツい崖のような斜面を降りてキャンプ地まで辿り着く。
最低地上高の低い乗用車だったら、降りてこられないだろう。
 
信じられなかったのが、ポルシェのサービストラックだ。
モスクワから一緒に来ている2台は、4軸8輪駆動のMAN製で、パーツやタイヤを満載したトレーラーまで牽引している。
それが、この急斜面を、さなぎの頃のモスラのようにゆっくりと真っ黒いディーゼルスモークを吐きながら、降りて来たのだ。
コクピットの天井部分に特製されたキャノピーや特異な形状のフロントウインドウなどが、戦う雰囲気をプンプンさせている。
小川さんによると、1980年代にパリダカなどにワークス参戦していた時に使っていた、そのものではないかとのことだ。
カイエン勢を支えた影の主役だ。

●8月10日

国境を越え、モンゴルへ。ロシアを出国する税関とパスポートコントロールが厳格だ。
モンゴルは、歓迎されている雰囲気。オルギーという村外れでキャンプ。
細かな石や岩が延々と続くだけで、他に何もない。
森林や草原すら、見当たらない。

●8月11日

昨日から今日までは、休日。ラリーのスケジュールは何もない。
各チームそれぞれ、クルマのチェックやパンクの修理、明日からのスペシャルステージに備えている。
 
モンゴルに入って、ラリーの日常が全面的に変わった。
ロシアでは、程度の差は激しかったが、毎日ホテルに宿泊していた。
モンゴルでは、ゴールのウランバートルまでは毎晩キャンプだ。
カイエン勢は、ポルシェから支給された共通のひとり用テント。
マットとシュラフは各自のもので、僕らはマムートから提供されたものを使った。
どちらもとても快適で、安眠を確保してくれた。
 
食事は、モンゴル人ファミリーのケータリング業者がウランバートルまでトラック2台でずっと帯同してくれ、毎日3食作ってくれた。
彼らは、キャンプからキャンプへ先回りし、トイレの穴を掘ったり、ゴミを処分したり、ラリー一行の身の回りの世話を焼いてくれた。
両替係まで一緒に来るのだから、徹底している。
 
オバちゃんと息子の作る料理は美味で、メニューのレパートリーも豊富だった。
魚こそ使わなかったが、毎日、キャンプのそばで仕入れ(仕留め?)た、さまざまな食材が新鮮で美味しかった。
特に、キッチン用テントの裏でシメていた羊に岩塩を擦り込み、何かのハーブと一緒に蒸し焼きにしたものが素晴らしかった。
あと、2日に一回は出た巨大餃子。
日本の餃子のカタチと構造はそのままに、大きさが3~4倍。
カリカリの皮と、スパイスたっぷりのアンが絶妙。今でも、食べたい。

●8月12日

オルギーからマンクハンまで、トータル440kmの行程。
うち、スペシャルステージは295km。
ポルシェのトランスシベリア2007・プロジェクトの現場監督であるユルゲン・ケルンが、ブリーフィングの際に、カイエン・ユーザーだけを残して、アドバイスを授けた。
「ロシアと違って、モンゴルのスペシャルステージは長い。
轍は狭く、鋭い岩がたくさん転がっている。
スピードを出し過ぎないように。リスクは、とても高い」
 
ユルゲンの言葉を、僕らはしっかりと受け止めたはずだったが、結局、この日フィニッシュまでに3回パンクした。
2本しか積んでいないスペアタイヤを使い果たし、途方に暮れていたら、エディたちが後ろからやって来たので、1本借りて無事にフィニッシュできた。
総合21位。

●8月13日

メカニカルトラブルを抱えたクルマが、何台も出始めている。
やはり、モンゴルのスペシャルステージは過酷だ。
 
ダルヴィまで、今日はリエゾン区間なしの330kmのスペシャルステージ。
唯一の人工物である送電線と電柱を目印に、100km/h以上でスパートするステップと呼ばれる、砂混じりで、樹木のない平原は速度を上げやすく、見通しもいい。
しかし、雨期には川が流れていたようで、その跡が深い轍になっているから、注意が必要だ。轍も、進行方向と同じ向きに延びていれば問題ない。
直行していると、危ない。
 
コロンビアのクリスチャンとクラウスは、その餌食となった。
僕らと同じように100km/h以上で飛ばしていたふたりは、幅5メートルくらいある干上がった川の底に、減速せずに突っ込んだ。
クリスチャンは背中を強打し、カイエンはフロントサスペンションにダメージを受け、オイルパンを割った。
 
他にも、カナダとオーストラリアのカイエンが、同じように高速からノーブレーキで縦方向に回転し、クラッシュした。
途中のチェックポイントで、主催者からスペシャルステージ中止を言い渡される。
 
ダルヴィのキャンプで、明日14日のスペシャルステージをキャンセルすると主催者から告げられる。
主催者の不備を追求する異議申し立てが1時間近く続いた。
「僕たちはツーリングに来たんじゃない。ラリーをしに来たのだから、次から次へとスペシャルステージをキャンセルして欲しくはない」
 
中東チームの往年の名ドライバー、サイード・アルハジャリの舌鋒が鋭かったが、内容はきわめてまともで、多くの賛同を得ていた。

●8月14日

陽が高いうちにアルタイの街に着いたので、給油と洗車を終わらせ、街のマーケットで昼食を摂った。
テーブルに腰掛けて昼食を摂るのは、久しぶりだ。
ここでも、巨大餃子を堪能する。
ホテルの食堂に入ったら、ラリー参加者がたくさんなごんでいた。
ドバイ・チームのカリーム・アルアジャリにビールを奢ってもらう。

●8月15日

バヤンコールまで、前10kmと後100kmのリエゾンにスペシャルステージが408km。
この日のステージに、コドライバーとして最も悔いが残っている。
走っている時は、最善の判断を下しているつもりなのだが、それが大きく外れ、順位を大きく下げた。
どこで、何を、どう判断し間違えたかを克明に憶えているから、余計に悔しい。 
先行車の動きを気にし過ぎ、自分でよく考えなかったことにより、遠いルートを通りチェックポイントをパスせざるを得ず、大幅な減点。
ヤマッ気を出して最短ルートを取ろうとし、草に隠れていた直行する轍にノーブレーキで突っ込み、オイルクーラーをヒットして、エンジンオイルを全部流出させてしまった。
すべて、僕の責任だ。
 
ドバイ・チームのカイエンに、100km牽引してもらって、バヤンコールのキャンプへ泥だらけで到着した。
他がたくさん遅れたので、総合14位へ大きくジャンプアップ。
「カネコさん、駄目だよ。終わったことをアレコレ言ったって。
言い出したらキリがないし、原因を突き止めようとしたら、お互いの責任のなすり付け合いにしかならないんだから。
あの状況で14位に上がったことを、むしろ良しとして次に進まなきゃ」
 
キャンプでの夕食時に、自分の判断の失敗を悔いていたら、小川さんに強くたしなめられた。
いつも穏やかな小川さんが、初めて厳しい口調になった瞬間だった。
パリダカ7回をはじめとする豊富なラリー体験からのアドバイスで、とても説得力があった。

●8月16日

モンゴルエルスまでのスペシャルステージは、428kmと最長だ。
川を、30本以上越える。深そうな川は、僕がカイエンを降り、ステッキで深さと勢いを探りながら小川さんを誘導する。
胸ぐらいまでの深さならばカイエンは渡れるので、僕はずっとビショ濡れだった。
 
途中までは快調に進んでいたが、ルートを見失って、真夜中にキャンプに辿り着いた。
GPSとルートブックを用いれば、ルートを見失うことはなく、指定されたウエイポイントをクリアしながら進んでいることも確認していた。
だが、最後のチェックポイントを過ぎてから、後ろから1台も追い掛けてこず、先行車にも追い付かなくなった。
「様子がおかしいよね」
「おかしいけど、GPSとルートブック通りに進んでいますから、他になすすべがありません」
 
考えられる原因は、GPSに主催者がインストールしたルートが間違ったことぐらいだ短縮されたスペシャルステージの変更データも、昨晩のブリーフィング後にオーガナイズの担当者のパソコンからインストールを受けている。
 
真っ暗闇で、何も見えないところを延々走っていたら、同じように遅れたレンジローバーに遭遇し、ヘトヘトになってキャンプに着いた。

●8月17日

313kmリエゾンを走って、ウランバートル郊外の山中で22kmのスペシャルステージ。
追い越しを禁じられた、パレードランのようなものだった。
 
モスクワから7000kmを2週間走って来た。
ロシアの長いリエゾンには参ったが、モンゴルでは眠っている時以外は、いつでもラリーに自分が試されているようで、面白かった。
WRCタイプのラリーと異なり、キャンプして移動しながら超長距離を競い合いながら旅するアドベンチャーラリーの一端に触れることができた。
 
高性能オフロード4輪駆動車とGPSという文明の利器を用いながら、五感によって進路を探りながら競争する。
文明社会ではまったく必要とされない感覚を試された。
ヒトという獣になれた2週間だった。