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目次


1.カザフ人の串焼き肉 東京

2.絶妙のサポート ロシア・エカテリンブルク

3.国境通過 ロシア・トロイック
 
4.昔のSF 未来都市 カザフスタン・アスタナ

5.ホームステイ カザフスタン・バルハシ
 
6.一瞬、中国人になった 中国・イーニン
   
7.もうダメだと眼をツブった 中国・ウルムチ

8.中国高速道路事情 中国・蘭州

9.火鍋と高級ヴィラ 中国・バダリン

 

 

 

 

 

 

 

 

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Paris Beijing 2006

 

ウラル山脈の麓から、カザフスタンを抜けて、北京までの7300km
2006年11月
ロシア・エカテリンブルク〜カザフスタン〜中国・北京

 
100年前のヨーロッパで、冒険ラリーが呼びかけられた。
「自動車で、パリから北京まで競走しようという者はいないか?」
 
その頃の自動車は、まだ、実用化したばかりで、“馬なし馬車”と呼ばれ、
誰も今日のような発展と普及を予想していなかった。
ラリーは過酷を極め、生還者は熱狂を以て、迎えられた。
 
そのスピリットをリスペクトし、ダイムラーベンツは、
「Eクラスエクスペリエンス・パリ〜北京2006」を実施した。
パリから北京まで、メルセデスEクラスディーゼルを走らせ、
その超長距離走行性能を確認しようというイベントだ。

行程は、5つに区切られ、ロシア・エカテリンブルクから
北京までの後半3行程に参加した。

帰国後、『モーターマガジン』誌に連載した記事に追加訂正を施したものを、ここに掲載する。

 

●1 カザフ人の串焼き肉 東京

ダイムラークライスラーが主催する「Eクラスエクスペリエンス パリ〜北京2006」
(以下、パリ〜北京2006)の要項書を初めて見た時、どうしても参加したかった。
 
なぜならば、そのコース設定に心震わせられたからだ。
 
パリ〜北京2006のコースは、5つに分けられている。
 
 第1レグ、パリ〜ロシアのサンクトペテルブルクまで。
 第2レグ、〜ロシアのエカテリンブルク。
 第3レグ、〜カザフスタンのアルマトイ。
 第4レグ、〜中国のランチュウ。
 そして、第5レグが北京まで。
 
僕が注目したのは、第3レグから第5レグ。アジアとヨーロッパを隔てるウラル山脈の麓の大都市、エカテリンブルクから北京までの約7300kmの行程だ。
 
もちろん、まだ一度も走ったことがない。逆に、第2レグのほとんどは、3年前に逆方向に走ったことがある。
 
第1レグは、走ったことのあるところが半分ぐらい。しかし、ドイツからポーランドを抜けて、リトアニア、ラトビア、エストニアというバルト三国を貫くコースには大いに食指が動かされる。違うコースでロシアからドイツへ入ったことがあるので、別のルートをたどってみたかった。
 
特に、ラトビアの首都、リガは街自体が世界遺産に指定されている美しいところだ。そればかりではなく、昔、よく読んでいた、グレアム・グリーンやルシアン・ネイハムなどの東西冷戦時代を描いたスパイ小説の舞台として頻繁に登場していたところなので、ひと目見ておきたいという野次馬根性も作用していたのかもしれない。
 
いずれにしても、未知の土地でクルマを運転してみたいという願望が強い。それを満たすために、3年前の夏に、ユーラシア大陸最西端のポルトガルのロカ岬まで走ったことがある。友人と準備を重ねて、富山からクルマをフェリーに乗せてロシアのウラジオストクに上陸し、ひたすら西に進んだ。
 
動機は単純だ。ヨーロッパ出張に向かう飛行機の窓から下界を見下ろした時に、シベリアの荒野を西へ延びる直線道路をクルマが虫のように走っていくのが小さく見えたからだ。
 
ああやって、ずっと走っていけば、いつも飛行機で行っているヨーロッパへクルマで行けるじゃないか!
 
自分の運転でヨーロッパに行ってみたい、とはずっと考えていた。
 
クルマのことを書いて仕事をさせてもらっているのならば、クルマ発祥の地であるヨーロッパへ、一度はクルマを運転して行ってみるべきだろう。飛行機でひとっ飛びしてしまってはつまらない。
 
そのように考えるようになってから、数年間、情報収集を続けた。すべてを友人のカメラマン田丸瑞穂さんと共同で負担し、中古車雑誌で見付けた、車検切れの1996年型のトヨタ・カルディナワゴンを37万円で買った。
 
ナンバーを取り、改造を施し、渡航のための煩雑な手続きを済ませて、富山県伏木港からルーシ号というロシアのフェリーに乗ったのが、2003年7月31日だった。
 
ルートは、ウラジオストクから北上し、ハバロフスクからはひたすら西へ進む。
 
計画の初期段階では、ウラジオストクとハバロフスクの途中から国境を越えて中国東北部を北西へ進み、ハルビンとチチハルを経由して満州里という国境の街から再びロシアへ入ろうと考えていた。
 
なぜ中国を通ろうとしたのかといえば、極東シベリアを避けるためだ。少ない情報やロシアから日本に来ている人たちに聞くと、みんな「極東シベリアには、クルマが走れるような道がない」というからだった。
 
いくら国土の面積が世界一だとはいえ、クルマの通れる道がないなんてことがあるのだろうか。
 
ほんとうに極東シベリアに道がなかったら、東端の重要軍港であるウラジオストクまでクルマで行けないということになる。
 
シベリア鉄道はロシアの西と東を結んでいるが、建設や保守のために沿線に道路がないなんてはずがないだろう。
 
僕と田丸さん、そして、ロシア語の通訳として同行してくれることになった東京外語大生イーゴリ・チルコフさんは、顔を見合わせた。
 
イーゴリさんは、西シベリアのウランウデ出身で、さらに西の大都市クラスノヤルスク大学に講師として籍を置きながら、日本に留学していた。日本とは情報の伝わり方に違い方があるようで、極東シベリアの道路事情などは知らないという。
 
だが、1999年に東京造形大学(当時)の波多野哲朗教授は、中国ルートを通ってロシアからロカ岬まで、学生を伴ってオートバイとクルマのグループで走破した。中国ルートを採ったのは、道のない極東シベリアをパスするためだ。
 
原則的に、現在でも中国では外国人はクルマを運転できない。しかし、波多野先生たちは研究と親善を目的とすると申請し、通行と運転許可を得ることができた。

「カネコさんの旅では、難しいと思いますよ」
 
キャンパス近くの喫茶店で会ってくれた波多野先生は教えてくれた。
先生によると、ガイトという名目で地域毎の公安警察が同行し、勝手に申請以外のルートを走ることが許されなかったという。
 
また、その頃、東京12チャンネルのテレビ番組「東京〜ロンドン1万5000km 日本のタクシーが行く」という特別番組が放映された。俳優の宅間紳が東京のタクシーに乗り、タクシー発祥の地、ロンドンまで走る。彼らは天津に上陸し、シルクロードの天山北路を通ってカザフスタンに抜け、その先のロシアからヨーロッパに入っていた。
 
番組のプロデューサーに話を聞くと、やはり、中国に持ち込んだクルマを運転して西へ走り抜けるというのは難しいという。テレビ東京の場合は、開局40周年記念と国連の世界子供年という理由を掲げて申請しても、許可が下りるのに2年以上を要したらしい。
 
僕らには中国当局を動かすような動機付けはないし、交渉している時間もない。

「公安警察の監視付きでしたが、中国は食事が美味しいところが良かったですよ」
 
波多野先生の話には舌なめずりしたが、諦めざるを得なかった。
 
結局、イーゴリさんの友達の警察官が極東シベリアに勤務していることがわかって、国際電話で訊ねてみることにした。

「道はあるんだけれど、舗装されていない上に、曲がりくねって細い。穴や水たまりもたくさんある。もう修復されたけど、橋が落ちていた区間もある」
“道はないことはない。かなりハードだけれども、走って走れないこともない”というニュアンスだった。東京で考えていても仕方がなかった。行くしかなかった。そして、案の定、極東シベリアの道路は僕らの想像通りだった。大変なことが多かったけれど、その分、面白かった。
 
僕らが果たせなかった、中国ドライビングが実現するかもしれない。そう考えると、「パリ〜北京06」の第4レグか第5レグに、ぜひとも参加したい。
 
さらに、カザフスタンも走ることができるかもしれないのだ。
 
カザフスタンも、3年前のロカ岬行きでは通ることができなかった。西シベリアのオムスクからチェリアビンスクへ西進するのに、国境沿いに進むよりも、まっすぐカザフスタンに入国し、ペトロパブロフスクという街を通過し、再びロシアに入国した方が距離が短そうに地図で見えたのだ。なにせ、街と街がとても離れており、道路も何パターンもあるわけではないから、入出国に多少時間と手間を取られたとしても、最短距離を採ることが、何よりも所要時間を短くできると判断したのだ。
 
だが、この案も、“ロシアからカズフスタンへの入国で8時間待たされた”という情報を得たことで、取り止めになった。
 
カザフスタンには、ロシア横断中から興味を抱いていた。バイカル湖のほとりの大都市イルクーツクを過ぎる頃になると、街や村の周りの国道沿いに、屋台や露店が増えてくる。中でも、どこに入っても美味しかったのがカザフ人の串焼き屋だった。立派なところは店舗を構え、簡素なところでは屋台だったが、目印は煙突からモクモクと吐き出される炭焼きの煙と眉毛やヒゲの濃い、独特の風貌のカザフ人の店主や店員たちだった。どこも、スパイスやハーブを擦り込んだ新鮮な牛や羊の肉を串に刺し、炭火で丁寧に焼かれたものを食べさせてくれた。
 
あの串焼きをもう一度食べたい。
 
カザフ人に限らず、ロシアではさまざまな人たちが、さまざまに暮らしていた。イーゴリさんは違うが、彼の故郷のウランウデなど、半分以上の人が日本人そっくりだった。
 
ロシアをクルマで旅していくと、人種だけでなく、食べ物も、串焼きが登場したように西に進むにつれて少しずつ変化していくのがわかる。道を行くクルマも同じ。東シベリアでは、90%以上が日本車だったのが、少しずつ減っていき、サンクトペテルブルクではほとんど見掛けなくなる。アジアの東からヨーロッパに行く過程で、あらゆるものがグラデーションのように変化して行く様子をこの目で確かめることができた。
 
パリ〜北京では、同じことを、逆方向の別ルートでできるかもしれない。それも、カザフスタンと中国を自分で運転できるという望みまでかなえられるかもしれないのだ。僕は、出発する前から興奮していた。 

 

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